2011年1月15日土曜日

2011/01/12

詩篇 4:8 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

昨日のことがあった後にこの節を迎えるとはとても興味深いことです!しかし、これは主によって何かをするように目覚めさせることについてではなく、何よりもまず(安心して)眠りにつけるほど主を信頼することについて述べています。不眠症にはたくさんの要因があります、しかしおそらく多くの物事に対して悩むことが一番の理由でしょう。それを変えることは、私たちが何に信頼を置くのかに拠ります。私たちが自分自身で物事を是正しなければならないと感じているうちは、不眠症はありふれたことであり続けるでしょう。赤ん坊のように眠る、という表現は、赤ん坊には何ら責任もなく、もし食べ物や物理的な快適さや愛情が満たされていれば、赤ん坊たちには何の心配もないという事実からきています。私たちは成長するにつれ、より大きな能力を得て、そしてそれがより大きな恩恵をもたらし、それと同時により大きな責任を引き連れ、そして心配ごとの種を孕んでいきます。ここでダビデが謳っていることは、私たちが、神は究極の存在であり、真に唯一で現実の、私たちの問題の解決法であるということが垣間見えたとき、(何も悩まずに)眠りに就くことに何の問題もないということです。(日本語訳は‘すばやく’と強調して書いていますが、NIV版はそうではありません。)

私は確かに不眠症であった時期がありました。この具体的な事実は徹底的に私が両面から試されたものです!私は数え切れないくらいに、夜には脳の活動をオフにするようなスイッチがあればよいのに、と口にしてきました、しかし実際にそのスイッチは存在するのです、それは信頼と呼ばれるものです。私は神の誠実さを頻繁に、そして深く経験してきたので、実際的に信頼しないという不合理性に対して私は頭を抱え込まずにはいられません、しかしだからといって、自動的に信頼が私の中に自然に生まれ出でるというわけではないのです;私は意識的に(信頼するという)選択をしなければならないのです。神が私に対しとても忍耐強いということに私はとても感謝しています、なぜなら私の観点からみれば、すべてのことにおいて神を信頼しないことについて言い訳など全くできるはすもないからです。私は信頼とは自動的に生まれるものではなく、大事につけ小事につけ信頼することを選択しなければならないということを常に心に留めていなければなりません。もし私がそうするならば、不愉快なことはそんなにイライラさせるものではなくなり、主の平安が真に私の心と精神をわが主キリストにおいて守ってくださるでしょう。

天のお父様、今朝のあなたが出してくださった実習に感謝します。昨日私にとても強烈に、人生は些細なことに聖霊の実を奪わせる余地が無いほど短いものだと教えてくださってありがとうございます。そのことをただ時としてではなく、常に私が覚えていられるよう助けてください!ストレスを与えるものとしてよりむしろ奮起させるものとして、私の人生の中の全ての些細なことをもってしてあなたを真に信頼できるよう導いてください。そして悪魔の欺く業がつまずかれ、そしてあなたの御心が叶えられるにつれあなたに栄光が来たされますように。感謝します。ハレルヤ!

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