2009年2月28日土曜日

2009/02/27

イザヤ6:1~8

S:イザヤ6:5 そこで、私は言った。「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間で住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目でみたから。」

O: 神の聖さをたたえたセラフィムに応答したイザヤの言葉です。イザヤ自身持っていないと思っていた神 聖さが啓示され、圧倒されて出た言葉です。ある意味で、十字架なくして、私たちが、いかに聖でないかに気づくまで、神様の聖さを受けることはできません。 私たちが話すという単純で基本的なことでさえ、神様の助けがないと、罪に汚れた言葉となる時もあります。イザヤは神のみ言葉を告げる者として用意されまし た。まだ、イザヤが働き始める前に、啓示を与えられたことは、とても重要です。私の知っている説教者の多くにも、このような啓示が与えられていたら、どん なに良いでしょう。イエスは、私たちの語る、ためにならないどんな言葉も差出すべきだと教えています。今日の御言葉で大切なのは、私たちの語る言葉は、神 様の聖さを正しく映し出すものでなくてはならないことにあります。

A: 私は言葉を語る者として働くように、語る賜物をいただいています。聖さと教えることの両方を守らな くてはなりません。冗談を言うべきではない、と言っているのではありません。イエスが冗談を言ったことをはじめ、冗談は聖書に多く記録されています。しか し、私はただ面白いだけの理由で冗談を言わないように注意すべきでしょう。汚いジョークが沢山あり、平気な顔で悪びれない人がいます。そうした冗談は、 ユーモアではありません。私は、いつも、神様がどなたであるか、恵みと全能の神様を心に意識しています。私の言葉は、神様にできないことはないという事実 を反映すべきです。とりわけ、私はクリスチャンの看板を負っているのですから、主の祈りの一行目を映し出すものでなくてはなりません。人は、私を見て、聞 いて、そしてそれらを基礎にしてキリストを判断するのですから、キリストを信仰を持って正しく映し出したいのです。

P: お父様。あなたの恵みを感謝します。私は、今日の御言葉が、いつも好きです。それは、多分、私があ なたのスポークスマンとして仕える決意をしているからでしょう。あなたの聖さにあずかって、歩き、語れますように。あなたのみ心が成就し、私があなたの御 言葉を混じりけなく、そのまま伝えられますように。感謝します。神様を賛美します!

2009/02/26

イザヤ1:1~20

S: イザヤ1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

O: 今日の節も、また有名な御言葉です。赦しのために神様が求めておられることは、いつも悔い改めで す。悔い改めは自分の罪を認めることが求められます。私たちは、まず、罪を認めたがらないか、あるいは認めたとしても、ひどすぎる罪なので神が赦して下さ らないだろうと思ってしまいます。贖いの十字架の力を超える罪などありません。御子を差し出されたほどですから、赦されない罪はありません。反面、贖いな しに赦される罪はありませんし、聖なる神様との交わりを可能にする罪もありません。ここに神の大きな恵みが示されているのですが、私たちには理解し、信じ ることが難しいです!ひどい罪を犯した人の方が、「善良」な人より、救いに近かったりします。なぜなら、ひどい悪人は無実のふりをしないからです。イエス の話に出てくるパリサイ人と取税人を思い出しますが、ほとんどの人はこの話を自分に当てはめて考えようとはしていません。

A: 殆どの人が私を「良い人」として見てくれていますが、神の恵みによって、私は自分にどれほど欠陥があるかを痛いほど自覚しています。私を理想化して見てくれる人たちがいます。彼らが受取る選択をするなら、同じように愛と恵みが得られることを理 解してもらうのに、私は苦労しています。昨日、精神病院で会った少女は、私の内にキリストがいるのを分かってくれました。しかし、神の御前には、私も彼女 と同じ立場にあり、全て神からの恵みによることを信じてくれません。Jは、私が人を引き寄せるのは何故かと聞きました。やはり、私の答えは同じです。神様 の恵みによるキリストのご臨在だと答えました。信者全てに気づいて欲しいのですが、栄光ある全ての富は、キリストの内にある彼らのものです。しかし、それ は水槽というより、むしろ配管のようなもので、ただ受け取るだけではなく、トランスミッターのように流し伝える役目です。私も、また自分の弱さを認め、し かし神の強さで乗り越え、自分の愚かさを認め、しかし神の知恵に頼っていきます。私を通して多くの人が神へと近づくためです。彼らの救いと神のご栄光のた めに。

P: お父様。私に確かに多くのことをなさって下さっています。感謝します。そして、私のうちで、私を通 して働きを続けて下さっています。私が、自分の力だとか、自分には値するのだと、一瞬でも過信しませんように。高慢の罠に、はまりませんように。歌にある ように、あなたをはっきりと見るほどに、もっとあなたを愛し、もっとみ傍で従いたいのです。日々、一瞬一瞬ではなく、そうあり、沢山の人たちにあなたの愛 と恵みを知ってほしいのです。人々の救いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/02/25

箴言29:15~18

S: 箴言29:15,17 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。

O: 大変興味深いですね!まるで、へブル人は日本人の“わがまま”のための言葉を持っていたかのようで す。NIVの「わがままにさせる」の表現より、ここでは、むしろ英語の「甘やかされた」の方が、より近い意味です。訳語の問題は別にしても、この節の教え は明確で、教訓的だったり物語であったりしますが、聖書に書かれている他の節と同じ教えです。子どものしつけに失敗すると誰の益にもなりません。どのよう な分野でも、改めようとしないと失敗に終わることが多いのですが、とりわけ子育てに関して当てはまります。多くの親にとって、子供をしつけることよりも、 甘やかす方が簡単ですが、長い目で見ると良い結果にはなりません。微に入り細に入って子どもを管理することも、また子どもをだめにしてしまいますが、指針 を持たず、そのことに固執するとひどいことになります。結婚同様に、親の仕事は大変ですが、努力したことの何倍も大きな報いが得られます。

A: 私は常に、この分野で失敗した結果に苦しむ人への対応をしているかのようですが、それほど驚くこと でもないでしょう。世界中にある社会問題の大半は、親としてのあり方が悪かったために起こっていると、私は若いカップルに教えています。そういった失敗 は、ことが起こった後で修復しようとしてもとても難しいのです!今日、私はJさん、Sさんの相談を受けます。二人とも、幼いころに無責任な行動でも構わな いかのような育て方をされ、そのために、今では周囲の人たちに心配や迷惑をかけています。この二人に、神様の愛を正しく示せるように、私に神様からの知恵 が必要です。私が彼らに、かまっていないとか、彼らに責任を取らなくていい、など思わせることは望みません。「やりたくない」からと、思い通りにさせても らっている子どもを見ると、私は怒りたくなる時があります!子供虐待、不必要な残忍さを持ったしつけはあってはなりません。しかし、大切なことは、子供は 自分にとって何が最良なのかを知らないことです。親も知らない場合がありますし、完璧な親はいません。しかし、親は子どもを家庭内の問題の仲裁者してはな らないし、責任から逃れることはできません。例えば、何を、いつ、だれによって、食べるかなど些細なことでさえ、子供の言いなりになってはいけません。そ れでは誰のためにもなりません。しかし、私は全ての人の人生を修復できませんし、神様から、そう求められてもいません。主が私に下さった場合にのみ、教 え、諫めていきます。自分の力に頼らずに、問題対処したいと思います。そうでなければ、力尽き果てて、もう働けなくなってしまいます。

P: お父様。牧師として長く働くほどに、あなたから頂いている愛と忍耐にますます感謝します。パウロが 言ったように、私は群れの中にあっては父の存在です。彼らを正しくしつけるのは、本当に頭痛がするほどに大変です!私がこの責任を全うできるように助けて ください。そして、あなたの指示でないのなら、個人的、感情的な重荷になりませんように。あなたに目を留め、信頼するように助けてください。あなたが私を通して私の霊的な子供を導くためだけでなく、彼らが自分たちの子どもをどう育てるか、私が指導できるように用いてください。悪魔の働きを打ち壊し、一つの家族となり、彼らが解放され、あなたのご栄光が現わされますように。感謝します。ハレルヤ!

2009年2月25日水曜日

2009/02/24

ヨブ記33:1~18

S: ヨブ記33:14 神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語れるが、人はそれに気づかない。

O: 神が語られたか、語っておられるか、これから語られるかは、問題ではありません。問題は私たちが聞 く耳を持っているかどうかです。新約聖書の福音書と黙示録が繰り返し、「聞く耳を持つ者は聞け」教えている通りです。ヨブ記が、記録された聖書の中では最 も古い書であると説を唱える学者がいます。だとしたら、ヨブと友人たちは神の言葉を記録した書を知らなかったことでしょう。しかし、ヨブはローマ書で明示 していますが、神は自然を通してはっきりと語っておられます。私たちは、旧約も新約も読めるのに、私たちが神を求めようとしないのは、言い訳ができないこ とです。神の御言葉を聞こうとするならば、聖書を開き、御言葉を読み出せば、声が聞こえてくるでしょう。聖書が難しいと訴える人は、まず、神を心から求め ようとしていないからです。さらに、これは大切なことですが、心から従おうとしていないからです。それでも、神に聞き従おうとしない人にも、神は役に立た ないことをおっしゃったりはしません。

A: 私は神が語言葉を通して、神の語りをいつも聞いて、心踊っています。直接、私に話して下さり、その 特権を受けていること、私を通して語ってくださることに感激しています。けれども、それで高慢になってはいけません。それらは、すべて恵みから来ているか らです。私の話を聞いてくれる人を励まし、彼らにも神は語ってくださっていることを教えたいと思います。正しく聞き取るためには、心から従う態度が求めら れます。これは、私が浜松で与えられたメッセージのテーマと、神と個人的関係を築くことの大切さを強調した昨日のデヴォーションと共通している内容です。 これらのテーマをどのようにまとめて、日曜礼拝のメッセージに備えるべきかを、主が示して下さるように求めます。聞く耳をあまり持たない人たちに、力強 く、効果的に届いて欲しいと願います。主と礼拝に関するメッセージを先にしましたが、それらと合わせて、今日のメッセージで、日本でのキリストの体が、建 て上げられ、変えられるように私たちは祈り続けています。

P: お父様、語り、働いて下さり感謝します。日曜の出来事を感謝します。また、若いクリスチャンの兄弟 が新たに来てくれました。学校や、新年度のために、引っ越し、来月にはこの教会を去る人達がいます。それでも、この教会が成長し、信者が増えています。有 り難うございます。この教会のためのあなたのご計画を実行し、成就するために、私がCさんとTさんと共同作業ができますように。完全にあなたに従い、完全 に献身する基礎の上に立ち、あなたの声を正しく聞き取れますように。無駄な働きではなく、前進し続け、悪魔の働きを破壊し、この国にあなたの御国を見ます ように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009年2月24日火曜日

2009/02/23

第2歴代誌26:1~5

S: 第2歴代誌26:5 彼が神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄させた。

O: 今日の御言葉は「ビジョン」をテーマにしたシリーズからは、少々外れているように見えるかもしれま せん。しかし、へブル書のいくつかの草稿では、ゼカリヤはウジヤに「主のビジョン」を教えています。この観点から、この御言葉を読んでいくと、箴言29: 18(あさっての聖書日課)の箇所に当てはまるのが分かります。ビジョンがなければ民は滅びるのです。今日の節で大切なことは、ウジヤはよく努力し、教師 がいる限りは祝福を受けましたが、教師を失うや、さ迷い始めてしまいました。つまり、ゼカリヤの教えを十分、身にしみて分かっていなかったのです。ただ、 外面的に守るべき決まりや規則だと思ったのでした。実は、こうした態度は多くの人にも当てはまります。私がしばしば引用しているアウグスティヌスの言葉、 神を愛せと言ったのが大変危険なのも頷けます。もし、心の底から、個人的な神との関係がなければ、外部の規制が緩んだ時に、私たちもすぐさまさ迷うことで しょう。外部の規則云々ではなく(イスラエルを見て明らかなように)、神様と一人ひとりの信者が積極的、個人的な関係を持つかが大切です。しかし、そうし た関係は、積極的なデボーション生活を送っていないと、実際は不可能です。忙しくとも、出かける前にまず、行うようにしたいものです。

A: すべての信者がデボーションの生活を送れるように、私は励ますのみです。デボーションの生活を習慣 づけていない人もいますし、途中でやめてしまった人もいます。自分自身のためになるように、どのように御言葉を読んでいくか、個人的に語っておられる神様 の声を聞き分けるように、私は示していきたいと思います。人生でのあらゆる出来事に拘わらず、じっくり御言葉に接する時間を持つ習慣を作るように励まして いきます。そうすることで、誘惑や試練に打ち勝つ強さが養われるのですから。

P: 天のお父様。Kさんに昨日、聖書日課のリストを渡すよう、あなたは促して下さいました。有り難うご ざいます。Kはほとんど聖書を読んでいませんが、それがどれほど危険なことかを知っていました。「デボーション」の言葉すら彼は知りませんでした。これか らの彼の人生で大いに有益となる聖書デボーションの習慣が根付きますように。そして、彼が人を励まし、人々もまた彼を毎日のデボーションで励ましていけま すように。助けてください。私たちがキリスト、御言葉、聖霊のうちに成長し、あなたのご栄光を現わせますように。感謝します。神様を賛美します!

2009/02/22

第2サムエル記17:4~17

S: 2サムエル17:16 「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

O:  18~29節を読んで分かるように、ダビデはrこの預言を疑って聞きました。しかし、この時代に、王に関して使われている言葉は珍しい表現ではなく、 「王よ、とこしえにあれ」と讃えられています。丁度、日本で使われる「長くいつまでも栄えてください」の意味の「万歳」の表現と同じです。(「万歳」を文字どおりに考えると、「10,000歳まで生きるように」の意味になります。)聖書以外では、このようなことはかなり過大に表現されているのが分かりますが、ここでは、神がダビデにはっきりと文字通り真実を述べています。ダビデの子孫はイエスですが、ダビデの王座 は今でも確かなものであり、これからも永遠に確固たるものです。人間的な見方をすれば、ダビデの王位はバビロニアで終わっているのですが、神はそのような 限界を設けてはおられません。彼は詩篇に書かれているように、少しではありますが、預言者的に未来を垣間見ています。しかし、それでも一人の礼拝者として の立場を保っていました。もちろん、ダビデにも欠点はありましたし、そのため、苦境に陥りましたが、礼拝することを忘れませんでした。神はそのような人を 求めておられるのだとイエスは教えています。

A: 今朝の礼拝メッセージ用にテーマを与えられました。この御言葉にぴったりの内容です。私は礼拝を心 から捧げているか、自分の心をよく見つめるべきだと感じました。ただ語るだけでは不十分です。周りの状況に常に分析的な私ですが、そうした態度を改め、拝 むべきお方に焦点を合わせていたいと思います。今朝、それを実行するのは少々困難です。今日はイベントがあり、余分な作業が控えているからです。しかし、 やはり、霊とまことにおいて礼拝し、信者にもそうしてほしいと願っています。

P: 天のお父様。最近、礼拝に冷やかであったことをお赦しください。あなたにだけ目を留め、応答できる ように助けてください。礼拝で使う機械類に心を煩わされることのありませんように。ただ、あなたに仕えていたいのです。今朝、私があなたから頂いたメッ セージの生きた模範となり、人に示すことができますように。そして、集まった人たちがみな、これからあなたへと導かれ、真に礼拝できますように。彼らが変 えられ、あなたのご栄光が現わされますように。感謝します。ハレルヤ!

2009年2月23日月曜日

2009/02/21

第1サムエル13:1~21

S: 第1サムエル13:13「わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。」

O: 親には大変大きな威厳と責任があります。子供が両親の言いつけをきちんと守らないからです。ですか ら、親は子供に正しいことを教える権威と責任があるのです。もし、失敗すれば神様から直接の裁きを受けます。もし、子供が親に挑み悪いことをし続けるな ら、その責任は子供にあります。しかし、親がその子供を正しく、あるいは温かく接することができないなら、その責任は子供と親の両方にあります。神はこの 基本を、イスラエルの見張番としてのエゼキエルを通してはっきりと教えてくださいました。もし、エゼキエルが彼らに温かく接し、死んでいたら、彼らの血は 自分たちに注がれ、もし、エゼキエルが彼らの温かく接していなければ、エゼキエル自身の血となって帰ったことでしょう。親は子どもを正しくしつけようとせ ずに、安楽な道を選ぶこともありますが、しかしそれは真理からは、ほど遠いものです!

A: カウンセリングをする時、私は子供のしつけに失敗すると、子供は親を恨み、決して幸せな人生が送れ ないことを教えます。この御言葉を引用して戒めるべきでしょう。日本社会は、善悪より恥や体面を気にする文化です。ですから、私が助言する親たちが、どれ くらい私の教えを聞いてくれているかは分かりませんが、教えていかなければ、私は警告を怠った見張り番になってしまいます。このように考えると、子どもが 正しく育たずに問題を起こす時には、両親の責任だと若い夫婦に教え続けていくべきだと感じます。そして、親が子供との間に正しく境界線を引くように教えま すが、それは子供が境界線を越えたときの責任のためです。

P: 天のお父様、信仰を持って私が見張り番として立てるように助けてください。私は対立は好みません。 日本人の文化にはくじかれますが、人々の救いのために根気強く対応していきたいと思います。私が自分の快適なレベルに対応するのと同じくらい、人に接する ことができるように助けてください。そうすることで、あなたの真実が私を通して愛の内に彼らに伝わりますように。この教会の集う人達にとって、私は父親の 立場にいます。良い父となり、あなたの愛をはっきりと強く伝え、励まし、諫め、正せますように。あなたの望まれるように、御心にそって、ともに成長できま すように。あなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美します!

2009/02/20

創世記46:1~7

S: 創世記46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

O: 創世記を読んでいて驚くのは、話に登場する主な人物が、殆ど神について知らなかったことです。この ことを念頭に見てみると、当時の社会では、一神教ではなかったのですが、他の選択をせずに、彼らは神を選んでいたのが分かります。ヤコブ/イスラエルは、 神と個人的な出会いをしました。にもかかわらず、彼にできたのは「アブラハムとイサクの神」と呼ぶことでした。大切なのは、神様はいつも私たちが今いる場 所で出会って下さるということです。そしてそこから引き上げて下さるのです。神様が私たちに関わって下さり、それから霊的により高く上げてくださいます。 もちろん、その究極の表れとなったのが、か弱い人間の赤子としてこの世に来られたイエス様です。人間の姿を取り、人間の限界を持ち、父の愛を人に教えるた めに、人間の罪のために罰を負って下さいました。これほど深く慈愛に満ちた神様の愛は、殆どの人の理解を超えています。私たちはその死に値いせず、神のみ そばに近づくこともできないほどです。それは、まるで放蕩息子が父に戻るのをためらったように、私たちを待っておられる父の元に自分は値しないと感じるの と似ているようです。

A: 神の愛を日本人に理解してもらうために、私がどう表現すべきか、もっと知りたいと思います。文化の 壁を乗り越えるのを求めるよりも、まず、彼らの今いる状態で会うべきでしょう。文化の違いから生じる罠と、福音の大切な中身を神に示してほしいと望みま す。これまで、文化の差異によって福音宣教が妨げられていたと思います。過去に来た宣教師にもその責任はあるでしょう。でも、私も彼らを責めることはでき ません。私は本当にこの教会を聖書的な文化を持った場所にしたいと望んでいます。文化のケアでMark・Estes氏が指摘しているように、日本人は文化 のケアをアメリカ人とは違った捉え方、表しかたをします。そして、日本人の教会はこうあるべきだと言った狭いに方には、私は賛成しません。それは、もう私 をはるかに超えたものです。聖書が、知恵が欠けていると教えている通りです。きっと、神様が惜しみなく、このことを教え示して下さるでしょう。この時期、 私は学校の仕事がなく、時間が沢山ありますので、断食、祈り、そして神のみ前に静まっていましょう。神が私に語って下さるのを聞き逃さないためです。神の ご栄光のために、ご計画を知り、従いたいのです。

P: 天のお父様。私に語って下さるあなたの忍耐に感謝します。私があなたにもっと耳を傾けますように。 私の心を基礎から変えて下さるために、お話し下さっているのですから。キリストの思いを語ったパウロのように、私があなたの考えに従って考えていけますよ うに。敵が積み重ねて作った欺きを壊し、日本人の心を自由にできるように、私を用いてください。彼らの救いとあなたのご栄光のために。有り難うございま す。ハレルヤ!

2009年2月21日土曜日

2009/02/19

創世記17:1~16

S: 創世記17:9 「あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。」

O: わたちたちが今いる地点に応じて、神様は取り扱って下さいます。かつて、アブラハムは神を全く知り ませんでした。それで、神様はアブラハムが理解しやすく、忘れないように、教え始めてくださいました。高い道徳の観念は、アブラハムには難しかったので しょう。そのために、先ずわかりやすく割礼という教えを与えました。神が望んでおられるのは私たちの心ですが、当時のように原始的な社会では、性殖器に関 わる決まりごとの方が、より身近で分かりやすかったのです。神は、土地や無限に広がる素晴らしさを示すなどの魅力的な約束を見て分かるように、よく「飴と ムチ」的方法を用いられます。しかし、同時に、誰もやりたがらないような手厳しいことも要求なさいました。まだ当時は麻酔はありません。こうした肉体の痛 みを伴う行為で、献身の表明を求められたのです。祝福のためだけでなく、痛みを伴っても、なお神に仕えることを望まれたのです。自分の快適な範囲を出よう とせずに、神の御意志を求めることは、自己中心的な幻想と言えるでしょう。

A: 今日の御言葉を聞いて欲しい人が沢山います。彼らは両親から与えられるばかりだったために、情緒 的、霊的に不自由になっています。たとえば、昨晩私を訪れた二人の訪問者は、全くそのよい例です。そうした人たちに、私はいつも愛を語り、励ましを与え、 彼らの心の底を表現しようと試みます。悔い改めと従順はオプションではなく、必須です。初めて神様を知った時には、まだ悔い改めについて良く分からないで しょうが、少しずつ、神様は示して下さいます。一人ひとりが、処理できる範囲の適正さで示されます。もし、悔い改めるべきことを、いっぺんに示されたな ら、人は崩れて粉々になってしまうでしょうから。私も日々、悔い改めていきたいと思います。困難な選択を強いられても、心に割礼を求められたかのように (パウロの表現です)、決してひるむことなくありたいものです。神に用いられるために、清くありたいからです。

P: 天のお父様。多くの分野で、力強く、いつも働いて下さり有り難うございます。感謝します。私が自分 の役目を十分、認識し、人、辛い仕事などを恐れ、ひるむことがありませんように。私の目の前にあることが、私のささやかな犠牲以上に価値を伴うことだとよ く分かっています。どうぞ、私が、完全な服従と献身で、あなたへの知識を持って歩めますように。御心が成就し、ご栄光が現わされますように。有り難うござ います。ハレルヤ!

2009/02/18

創世記15:1~6

S: 創世記15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

O: この節のはとても重要です。重要性を強調してしきれいほどです。救いの基礎は信仰によるのであり、 決して行いによるのではありません。この時点では、アブラハムに対して神はあまりご自分を現わしておられません。忘れがちですが、聖書に出てくるこの時代 の人達は、まだ聖書を持っていませんでした。アブラハムに分かっていたのは、個人的に関わって下さる生きた神であることだけでした。彼にとっての神は、月 の神や彼の出身地の人々が崇めていた神ではありませんでした。(ところで、モハメッドの環境は多神教であったのですが、その多くの神の中から、月の神を選 び、アラーと呼びました。信頼できる学者の説です)神はアブラハムに直接話しかけ、神が現実であると彼は知りましたが、神について多くは分かりませんでし た。神様の約束が不可能に思えるときなどは、神を信じ、信頼するのは大変なことだったと分かります。アブラハムはまだ守るべき法を与えられていなかったの ですから、この時点では、神は、アブラハムの信じる決断、信頼し献身する思いを見て、彼を義だと認めました。パウロもまた、天地がひっくり変えるほどの出 来事を通してハバククの言葉を借りて示しています。「義人は信仰によって生きる(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ハバクク2:4)」です。さらに、へ ブル書を書いた人物もまた、同じように述べています(へブル10:38)。地球上に、このような確固とした基礎を持った宗教は他にありません。このことを 忘れているクリスチャンさえいるようですが。神様は、先ず何よりも私たちの心の中をご覧になります。神に心を明け渡すなら、行いも伴うからです。ヤコブと 第一ヨハネにあるように、これは難しいバランスある行為となります。ですから、私たちもいかに神に従っているかで、神への信仰の度合いがわかるでしょう。

A: 私は完全な従順を持って行動し、教え、決して怠ることのないようにしたいと思っています。アウグスティヌスは「神を愛し、喜ばれるように行え」と諌めましたが、その教えは今もそのまま通用します。ただ、そのためには高い霊的成熟がいるでしょう。神を真に愛することは、神様を喜ばせようと望むこと以外の何物でもありません。へブル5:14にあるように、良 いものと悪いものの判断を狂わせる悪魔の欺きを見分けるために、経験によって見分けられるように訓練していなくてはいけません。私は聖霊様が私の心と、私 が指導する人たちの心に働いて下さると信じ、頼っています。しかし、パウロが教えたように、私は信徒らを「教え、諫め、励まし」ていきます。そうすること で、信仰によって生まれる義のうちに彼らが成長するためです。

P: 天のお父様。私にあなたの御言葉を下さり有り難うございます。御言葉を広め、伝えられる素晴らしい 特権を下さり感謝します。昨日CGN TV にメッセージが三つ収録できました。その間のあなたの導きと油注ぎに感謝します。仕事で成績評価をする日が近づいていますが、気にせずにメッセージ ができました。私への沢山の恵み、本当に感謝します。あなたを信じる選択ができたこと、あなたを知ることができたこと、それ以来、御言葉とあらゆる手段を 用いて、多くを私に語ってくださったこと全てを有り難うございます。もっともっとあなたに従うために、心からあなたを愛し、信じ、信頼するように助けてく ださい。あなたのご満足とご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/02/17

黙示録22:1~9

S: 黙示録2:8~9 私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏 して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。 神を拝みなさい。」

O: 礼拝すべき対象となるお方はとても深遠ですから、信者が心から永遠に拝めることは素晴らしいことで す!ここでは、「礼拝」を、崇める/拝むという日本語の表現にしてあります。とても良いことだと思います。「礼拝」という語は、感謝や賞賛も意味を含んだ 文字の組み合わせです。感謝しながら崇め、拝むことを、一体どれだけ多くの教会がしているでしょうか。今日の御言葉で大切なのは、崇め、拝むに値する唯一 のお方は神様だけという教えです。永遠に全ての物にとっても真実です。最近、注目されている御使いでさえ、神と神の御言葉に従い、仕える者です。現代社会 では、富、技術、物質的快楽、若さ、美、力、影響力、など多くのことに崇拝の対象をおいています。けれども、現在起こっている経済危機を見てもわかるよう に、これらの対象は全て過ぎ去ります。神様だけが崇拝するに値するお方です。神様がおられるからこそ、第一に私たちは礼拝に臨むのです。

  
A: 私は、どなたを礼拝すべきかに関し、正しい認識を持てる環境で育ちましたが、ともすると他のことを 第一義にしそうな危険な状態だったこともあります。特に技術に関してです。「神と神の義いを第一に求めよ」というイエスの大きな教えとイエスの語ったこと を考えて、私はどのように生きるかがはっきり分かりました。隣人を愛するようにあなた自身を愛せよという第二の教えに忠実であることです。ヨハネが第一の 手紙の中で指摘し、イエスも良きサマリア人の話や他の箇所で教えたように、もし隣人を低く見るならば、神を正しく礼拝できません。全ての人のために、イエ スは死なれたのです。このことをいつも心に覚えていたいと思います。そしてそのように人に接していくべきでしょう。それができてこそ、私は神を礼拝したこ とになるのです。

P: 天のお父様。このはっきりとした力強い御言葉を感謝します。人が私の行為を見て真似るくらい、模範 となり、実行できるように助けてください。今朝、CGN TVに、さらにメッセージができたことを感謝します。カメラを通して、あなたのみ言葉を語り伝え る機会を有り難うございます。メッセージの使用を決めるべきか、準備すべきかを示して下さい。そして、視聴者があなたの御言葉に触れ、霊とまことにおい て、あなたを礼拝し、ご栄光のために生きた礼拝ができますように。感謝します。ハレルヤ!

2009/02/16

黙示録21:9~27

S: 黙示録21:27 しかし、すべての汚れた霊や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。子羊のいのちの書に名が書いている者だけが、入ることができる。」

O: 多くの人がこの御言葉を除外しているのは面白いことです! 主は私に昨日のメッセージで語らせて下 さったのはこういう内容です。クリスチャンであると言いながら罪に留まっているならば、それは自分自身を除外している、ということでした。神様は、私たち 全ての人間が救われるのを望んでおられます。そして、私たちはイエスを主と認める選択をすべきなのです。しかも、それが単なる表面的なものだけではいけま せん。神の基準が明確で曲げられませんが、アメリカ社会はとりわけ罪の体裁を作り、取り囲んでいるかのように見えます。パウロがコリント人に言ったよう に、私たちもかつてはとてもひどい状態でした。しかし、心を改め、献身するならば、イエスの血によって清められ、聖となり純粋にされるのです。そして、そ れ以外に救いへの道は用意されていません。悪魔は、人を惑わし、イエスの血以外にも救いがあるかのように騙そうとしています。しかも、悲しいことに、その 嘘に多くの人が騙されているのです。悔い改めを人に勧めることは、不親切以外の何でもありません。

A: 来週の日曜に、ノンクリスチャンを含むユースグループがゴスペルコンサートをします。そのことと、 今日、私が言っていることと関連性があります。歌に対しても、観客に対しても、罪と救いは現実のものであり、悔い改めが必要なことをはっきりと説くつもり です。面白いことに、日曜説教のテーマは礼拝についてです。礼拝は心を込めた態度で、「霊とまことの礼拝」をすべきだと教えようと思います。

P: 天のお父様。あなたのみ業すべてに感謝します。私が、あなたの霊の流れに留まっているように助けて ください。逆流に淀むことなく、前進し続けますように。昨日、ここで、表された気持ちに感謝します。あなたの愛と恵みに感謝します。自己肯定間の大切さに ついて、HとJに話せる機会を持てました。有り難うございます。自己を尊ぶ心こそ、今、多くに人の必要なことでしょう。HとJが、あなたの大きな愛とその 意味を知りますように。そして、あなたのうちに安心を覚え、世間や状況に振り回されることがありませんように。同じように、私もあなたのうちに安心を覚 え、人々の言葉や態度に心を悩まされることがありませんように。ただ、あなたに従順にしたがい、謙虚に歩けますように。私に対するあなたのご計画が全て成 就できますように。全てはあなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美します!

2009年2月19日木曜日

2009/02/15

黙示録18:1~24

S: 黙示録18:3 「それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女の不品行を行い、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」

O: この章を読んで、バビロンの描写に、不愉快ながらも、アメリカを思いました。アメリカは、健全な聖 書的精神に基づいて建国されたはずですが、精神病的な側面ばかりが積もり積もってきています。宣教師の派遣、倫理観など、他国以上に崩壊しています。今、 抱えている経済危機にしても、NIV版の言う「過剰な贅沢」から発生しているのです。黙示録に書かれているバビロンがどこの国を指すのか、もう二千年近 く、言われていますが、今のところ、まるでアメリカを描写しているかのようです。様々なことが起こり、目が見える人にとっては、明らかに霊的戦いにあるの が分かるでしょう。神様が屈しない方だと知っている人には、建国精神に基づいて、立ち上がり、理念を表す時でもありましょう。 

A: 私はこうした出来事に関わりがあるし、傍観者でもあります。キリスト教国家でもなく、今起こってい る出来事のように病的でもない国に住んでいてよかったとさえ思います。しかし、私の娘たちと孫たちはアメリカにいるので気がかりです。どの国も何かの分野 で何がしかの問題を抱えているものです。私の役目は、地域、国家間レベルでとりなし、神の御国を歩き、私ができる神の義を行うことでしょう。もし、すべて の国がキリストを求めるならば、きっと全てが変えられるのです!

P: 天のお父様。アメリカを憐れんでください。今、この段階で、大村の方向性、御心、できることを明示 して頂きありがとうございます。強欲の結果を教えてくださり有り難うございます。今起こっていることが、アメリカだけでなく、世界各国で多くの人の悔い改 めとリバイバルにつながりますように。贅沢と甘やかしの神などはいりません。沢山の人が、あなたに真に悔い改めますように。人々の救いとあなたのご栄光の ために。感謝します。神を賛美します!

2009年2月17日火曜日

2009/02/14

S: 黙示録11:17「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、主となられたことを感謝します。」

O: 神様の力と支配に感謝するのは奇妙に感じるという見方もあるでしょうが、義を愛する人にとっては、 これほど自然なことはありません。NIV版の「支配を始めた」よりも、私は日本語の「主になられた」の表現が好きです。明日は、イエスを主というメッセー ジをするつもりですが、まさにそのテーマにぴったりの表現です。イエスが主である力を発揮なさる時、全てが神の御意志として起こります。イエスは私たちに 祈るように言われましたが、主の祈りを唱えるとき、私達は形だけの祈りをしているようです。第一の戒めは、心、全身全霊を尽くして神を愛せよでした。その 教えに従う者は誰でも、神のみ心がなされた時には喜ぶことができます。神のみ心は人間の理解をはるかに超えています。しかし私達はそれでも、神様が良いお 方であり、受け入れて下さる完全なお方だと知っています。(ローマ12:2)だからこそ、神様のみ心がなされた時には、感謝し心から喜べるのです。

A: 現在、世界中で起きている出来事の多くは、神の望むものではないと、神がはっきりと私に語ってくだ さったのを、私は決して忘れないでしょう。神の御意志と人間の自由意思の不思議さは私の理解を超えていますが、現在の社会のひどい有様が神様の直接なさっ たことでないことは、よく分かります。そして今日のみ言葉に私は嬉しくなってしまうのです。私が今すべきことは、焦点をイエスの合わせ、状況に巻き込まれ ないようにすることでしょう。そして、あらゆる領域で、神の主権に心から従い、人にも神に従うに勧めることです。イエスが語ったように、世にあっては艱難 がありますが、主であるイエスに献身するならば喜んでいられるのです。(ヨハネ16:33)
ですから、私の最終目的は主であるキリストに置くべきでしょう。

P: イエス様。あなたが主であることを感謝します。全ての最後を全て正しくして下さることを感謝しま す。私が、義の内にあるあなたに従えることを感謝します。大村をクリスチャン都市にするというヴィジョンを与えて下さり感謝します。しかし、私はいずれ世 界中が、あなたを主として認め従うことを知っています。あなたのみ心通りに私が用いられますように。あなただけに仕え、自らこの身を捧げられますように。 御国が来たり、天で成されるごとくにあなたのみ心があらゆる所で成されますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/02/13

S: 黙示録8:1 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。

O: 確かトミー・バーネットだったと思いますが、半時間という時間を聖書に書き記す価値があるなら、私 達は人生の中で半時間を言う単位を、しっかり準備しておくべきだと述べました。時間管理を気にしすぎる一方で、殆どの人は時間を無駄にしているのも事実で す。しかも、そうした時間の浪費は役に立っていません。時間自体は神様が造られたのです。そして人間は時間を忠実にこなし仕えるべきです。時に神様は私達 が休むように望まれます。ちょうど、イエス様が嵐のさ中に船で休まれ、弟子たちにも休みを取らせたようにです。そうした休みを彼らはミニストリー中、何度 か取りました。しかし、悪魔は他の物を盗みたがるのと同様に、時間をも盗みたがります。ですから、私達は気をつけていましょう。心配に心を煩わせ、神様なしに時を過ごすのは、本当に無駄なことです。

A: 私は、何年も沢山の時間を浪費してきました。そして、今もまだそうです。私のスケジュール用の手帳 は、30分単位で書き込めるようにした方が良いくらいです。時間の用い方をもっと意図的にして、一瞬一瞬を神様の御意志を求めるようにしなくてはなりませ ん。いつの時も祈りは良いもので、時間を費やしても祈りたいくらいです。私は祈りに専念している時は、悪魔の誘惑に駆られることはありません。最近は、多 くの仕事があります。そんな中でも、祈り、特に聖霊の祈りは行動しながらも容易く組み合わせることができます。神様が私を用いたいと思われるときなどに備 え、神の指示に耳を澄ますためにも、積極的に「絶えず祈って」いたいと思います。

P: 天のお父様。私は「自分の時間」にピリピリしがちで、そのくせ多くの無駄な時間を費やしています。 時間を作られたのはあなたです。ですから全てがあなたの時間であると分かり、くつろげるように助けてください。私が責任を持ってあなたのために働くため に、時間を使えますように。私を通してあなたが多くをなさりたいのは知っています。しかし、その仕事も集中した時間を要するのです。これから、二ヶ月間学 校の授業がないことを感謝します。この期間、私が時間管理を学べますように。あなたがくださった私への賜物を、あなたのために活かすためにも、いつもあな たを覚えていられますように。私の時間が割かれるのを厭う思いが無くなり、すしろ、あなたの声を聞き、従い、歩けますように。あなたの命令を聞き逃しませ んように。いつもあなたの使者であり、あなたのご栄光を表すために、あなたの時宜にかなった働きができますように。有り難うございます。神様を賛美しま す!

2009/02/12

S: 黙示録4:8 彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神でおられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」

O: 黙示録に書かれている時間の表現には混乱させられます。それは、ヨハネが表現しようとしたことは、 時間と空間を超越して起こる出来事と存在についてだからです。しかし、ここでの大切なのは、天国は神の存在への思いで満ちているということです。つまり、 人間の理解では不可能なほどに、神様は全ての聖なるものを超越しておられるのです。神は主なる方です。しかし、この聖句でもまだ私達は、せいぜい断片的に しか理解できないでいます。私は日本語の表現、「すべての支配者」が好きです。その方が、NIVで使われている「全能者」より分かりやすいからです。(日 本では全能、万能はクレジットカードのCMで見かけます。)神様は時間と空間を作られました。神は昔いまし、今いまし、後におられるのです。私達の今、存 在している状態では、神のことを分かるには限りがあります。けれども、神を意識し、感謝しながら成長すれば、神の領域に生きて行いができるのです。神の代 表として神を映し出す者となれるのです。

A: 今朝、私は繰り返しハーモニーが聞こえ、目が覚めました。「神様はなんて偉大なお方」というフレー ズが頭の中で何度も聞こえてきました。すてきな目覚め方です。神様の恵みによって、私は多くの人よりは、神について気づきを与えられていますが、まだまだ 成長しなくてはいけません。神様を軽んじることなく、しかし、重荷に思うことがあってもいけません。神様は、本当にユーモアたっぷりのお方です。私は周り で起こる出来事に、神に感謝し賛美しつつ、神のうちにあって、喜ばせ喜んでいたいと思います。私が肉的に快か不快かにかかわらず、神様は賛美に値するお方 です。神様との永遠を楽しみにするにつれ、常に神を喜び、礼拝し、ますます現在ある永遠を生きるべきでしょう。人が私を見て神様へと導かれ救われるために です。神様のご栄光のためにです。

P: 天のお父様。溢れんばかりの恵みを感謝します。この数日、私の心は感謝でいっぱいです。不平よりも感謝を持っている方が、本当に心地よいことなのですね。
そうは言っても、様々なことで私は時に感謝から心が遠のきます。そんな時は不愉快です。あなたに大きな感 謝を持って、焦点を合わせていられるように助けてください。私が周囲の人にとって、あなたを通す器となれますように。彼らに触れ、あなたへと導けますよう に。天の祝福がこの地上で現わされ、ともに喜んでいられますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/02/11

S: 第一ヨハネ2:3~4 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

O: ヨハネは愛に仕えた人として知られており、優柔不断の人ではありませんでした。私達は確かに信仰を 通した恵みによって救われました。しかし、救い主に従わずに救いを求めるなら、その人の人生は偽りです。ヨハネが明言しているように、最も献身的なクリス チャンでさえ、時にはつまつぎます。しかし、それでも心の中は従順でいなくてはなりません。今日の聖句で用いられている日本語の意味合いは、「神の命令を 守れ」に近いでしょう。これは、新約聖書で使われている「従う」という語と全く同じ意味ではありません。さらに、日本語には大切にするという語意を含ん だ、守るという意味もあります。弱い人間は、常に神の命令に従うことはできませんが、心の中は詩篇119の作者のようでありたいものです。新しい契約は律 法的ではありませんが、イエスが言ったように、律法をなくすためにイエスが来たのではなく、成就するために来たのです。

A: 私は立法主義とは程遠い人間ですが、今日のみ言葉の真実を忘れてはならないと思います。クリスチャ ンであると公言しながら、人に媚びる生き方をするのは、神の御意志に反しています。私はそうした印象を与えないようにしなくてはいけません。アウグスティ ヌスは、私達が真に神を愛するならば、神に喜ばれる行いができるし、それは、とりもなおさず、神に喜んでいただきたいという望みが私達の心にあるからだと 言いました。統計的に見て、アメリカのクリスチャンは、ノンクリスチャンとさほど変わらない生き方をしているそうです。ですから、私は教え、説教する中 で、そうした生き方でもいいんだよ、といった印象を与えないようにしたいと思っています。神を知れば知るほどにキリストのような生き方をしてくるもので す。ここでも、また私の父の、「分かっているだけの自分を分かっているだけのキリストに捧げよ」という訓戒を思い出します。実に現実的な教えです。私もこ の教えを、信仰心を持って、実践し教えていこうと思います。

P: 天のお父様。日曜礼拝説教にぴったりのメッセージです。私が、このメッセージを用いるかどうか、も し用いるならば、どのようにするかを示して下さい。あなたの命令に重きを置き従えますように。全身全霊を尽くし、あなたを愛し、自分を愛するように隣人を 愛せますように。そうすることで、私のうちにキリスト表し、多くの人があなたの御国へと導かれますように。救いとあなたのご栄光のために。感謝します。ハ レルヤ!

2009年2月15日日曜日

2009/02/10

S: 第一ヨハネ1:3~4 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるには、あなたがたも 私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父イエス・キリストとのまじわりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜 びが全きものとなるためです。

O: クリスチャンの交わりはノンクリスチャンの人にとっては、殆ど信じられないことでしょう。イエスの 弟子たちに示される印であるとイエスは言いました。もっと多くの人を交わりに加えたいとの願いは、伝道者の重要な原動力となります。日本人はどこかに帰属 するのが好きなので、こうした特性は日本人を御国に導くのに強力な動機となるでしょう。しかし、平均的な教会はこうした交わりの時を明らかにしていませ ん。それでは、他の人との関係を保つのが危うくなってしまうでしょう。悪魔は日本人が献身しないように強く欺き、働いています。キリストに献身するのであ れば、友人や家族を捨てなければならないと思わせているのです。イエスは、実に家族や友人よりもイエスを愛するようにおっしゃっていますが、もし家族や友 人もキリストに導けるなら、その関係はさらにさらに深く豊かな関係となるのです。

A: 今回の浜松と藤沢への旅行で、家内も私もクリスチャンの交わりの時を持てました。Tさんにキリストにある兄弟として挨拶ができたことが特に嬉しかったで す。オリーブチャペルにコカイン・シンドロームのご家族の方がいらしてくださいました。そこでの愛に深く感動しておられました。交わりは大きな祝福だった だけでなく、キリストを顕す力強いもので、御国へと導くものでした。この祝福を私が喜ぶだけでなく、どのように人に伝えるか、神様のご計画を求めねばなり ません。オリーブチャペルでの交わりが神様のみ心に叶って活かせるためにです。

P: 天のお父様。驚くばかりの恵みを感謝します。この旅行でのすべてに感謝します。安全に帰宅できまし た。今週、私が学んだことを全て積極的に行うように助けてください。ここでの日曜礼拝での恵みと油注ぎに感謝します。TさんとRさんの各々の奉仕を励まし ていけるように私を導いて下さい。あなたが彼らをコーチし、彼らが私をコーチできますように。そうすることで、あなたへの奉仕をもっと有益に用いられて行 いたいのです。あなたの望むように私達全員を導いてください。あなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美します!

2009/02/09

S: 第二ペテロ 1:19 私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまで、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。

O: 預言は、それが成就するまでは、はっきりとは分かりにくいものです。せいぜいよくて、起こっている 出来事の一部分しか説明されませんが、それでも何もないよりかは、はるかにマシです。聖書は素晴らしいものですが、何が起こるか、どのような人生なのかに ついては、詳しくは教えてくれません。しかし、やはり、無限の聖書を持っていることは、何も持たないでいることより良いのです。ちょうど、まっ暗闇より、 ランプで無限に照らされる方が良いのと同じことです。加えて、晴れた日の昼間にランプを持って外出しても無意味なように、聖書の作者である神様と対面して いる時は聖書は必要ないのです。聖書を礼拝する教会もあります。そこでは聖霊によりキリストとの生きた関係を持とうと、聖書を一行一行学ぶのを好みます。 聖霊に焦点を合わせると聖書の理解ができないというのです。それでは、まるで手紙を書いた人を無視して手紙を読むようなものです。しかもその書いた人は、 すぐ真横におられるというのに、です。

A: 私とは違い、聖霊の理解をできないでいる人たちを、私は見下してはいけないでしょう。C・S・ルイ スが言いましたが、私達は間違いが天において分かるのです。しかし、私は神様が私に啓示してくださったことを分かち合いたいし、どのような機会も逃さずに 伝えたいのです。聖書を読む時は、いつも聖霊様の導きと啓示を求めています。他の人にも同様のことを勧めています。み言葉を大切にして守りたいのです。み 言葉を心に蓄えたいのです。しかし、それも決して作者である神様よりも上に崇めることはしません。神様は私を十分な愛して下さっているのですから。

P: 天のお父様。聖書を感謝します。聖書を親しむ家庭に育ったことを感謝します。毎日、聖書を読める喜 び、人に聖書を教える特権に感謝します。信仰を保ち、正しく聖書を理解できるように助けてください。私の心にある間違いや悪意を取り除き、あなたの子供と して喜ばれていることを学べますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/02/08

S: 第一ペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

O: このみ言葉は、全ての教会へのコーリングであり任命ですが、信じたように行動するのは難しいことで す。日本人の感覚では、この聖句のように公言するのは受け入れがたいことのようです。このみ言葉が聖書の中でさえ真実であるのですが、日本の教会はそのよ うに行えないようです。日本の文化では帰属意識を重要視しますが、この聖句は私達は神に属すると教えています。日本人は共同体による権威に重きを置きま す。そのため、代表となる個人は全体の象徴となります。このことを理解した上で、日本人クリスチャンが神への帰属意識をしっかりと持つならば、会社員が企 業に属するか、あるいはそれ以上に帰属意識を持ち、神の代表として行いを始められるでしょう。それが国と世界を変える始まりともなるのです。

A:  日本人クリスチャンとコミュニケートしたいと心から熱く願っているのですが、今日の教えを私は日に日に学び続けているところです。私の知恵と強さだけで為 し得ないことは明らかです。ですから、聖霊様に委ね、私を通して働いて下さるように、あらゆる機会を逃さずにいたいと思います。神に不可能はないのです。 この仕事の大きさに面食らってはいられません。家内がミニストリーをしようとしたところ預言が下りました。リバイバルがこの国で起こるという預言でした。 家内のミニストリーはますます盛んになっていますが、私もできる限りの働きをしたいと思っています。

P: 天のお父様。昨日の全てに感謝します。朝の家内のセミナーが成功しました。有り難うございます。午 後も、セミナーの内容を実際に教えることができました。F牧師と語り、良い時間が持てました。私が語ったこと、今日これからあなたが私を通して語られるこ とが、彼の心に響き、悪い思考パターンの鎖が壊されるように祈ります。あなたの望むように、彼が解放され、力を得ますように。彼の奥さんなしで働きが殆ど できないこと、彼と奥さんがチームとして働く必要があることを気付かせて下さり有り難うございます。彼が奥さんに感謝の意を伝えることができますように。 五人の子供の世話で彼女はとても大変です。ミニストリーにおいて、彼女が重要なパートナーであることを彼女が分かりますように。彼女の素晴らしい資質に感 謝します。ご夫婦がしっかり結びあわされるように助けてください。そしてよりよい奉仕ができますように。互いがあなたの恵み、展望、力、ご栄光を流す器と なれますように。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/02/07

S: ヤコブ1:2~4 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさ い。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠 けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

O: とても有名な聖句です。私たちには、みな試練が与えられます。その試練をこの上ない喜びと思えとは 人間の感覚で捉えるには衝撃的です。パウロも、ローマ5:3~5で同様の捉え方をしていて、ヨハネ16:33でイエスが述べている内容と一致します。困難 にある時に不平を言っても無駄なのです。私は、ヤコブが言った言葉の日本語訳「その忍耐を完全に働かせない」の言葉が好きです。殆どの人は忍耐強く働くの を好みません。ですが、神様は大変に忍耐を持って私たちと接してくださっています。私達が忍耐を持てるように、神様は多くの状況を用いて教えて下さってい ます。私達が忍耐強く成熟するためにです。しかし、また私達はその忍耐強さを受け入れるべきです。さもなくば、受け入れるまで教訓が与え続けられるでしょ う。神様のプログラムに従うことこそ、成熟のためには最短で簡単な方法なのです。

A: 昨日も書き物をしている時に、私はまたしても不平不満をこぼしてしまいました。朝一番に気づいたの で、残りの一日中は快適でした。問題は、この教訓を以前に何度も経験していることです。それなのに、また後戻りしてしまっているのです。この真実に目を留 め、どんなことがあっても、喜び、感謝していたいと思います。それは、キリストにあるなら常に私の益となることを知っているからです。神様にご栄光を帰せ ることができるからです。

P: 天のお父様。昨日はよい一日でした。旅行がスムーズにいったことを感謝します。車窓から富士山の写 真を思いがけなく撮れました。Fさん一家と少しですが、良い交わりの時が持てました。そして大村に帰るまでに彼らと時間を過ごせそうです。有り難うござい ます。Tさん一家と素晴らしい時間が持てました。彼をキリストの家族として迎えられたことの何と素晴らしいことでしょう。今朝、彼女が家内のセミナーに来 れそうです。感謝します。明日の午後もまた会えることでしょう。とても快適な滞在に感謝します。今回の残りの旅程も全て、キリストの体のため、あなたのご 栄光のためになるように祈ります。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/02/06

S:へブル12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平和な義の実を結ばせます。

O: 私自身この句を人に教えるために、しばしば引用するのですが、思うように事が運ばない時には、つい 不平を言ってしまいます。私たちに起こることは全て神様から来ています。良きことに変えて下さるという神の御意志です。ところが、私達は起こる出来事を認 識できないでいます。人に今日のみ言葉を話す時は、終わりよければすべて良しのように話せるのですが、自分に応用するとなると大変です。心しておくべきこ とは、神様に支配権があり私たちへの最善の益をご存じであり、またそれを望んでおられるということです。それは、神様は実に愛であるからです。残念なこと に、私達は理解しようとせずに、拒否し、台無しにしてしまいます。ダマスコへの道で、主はサウロにも忠告なさっています。

A: もし私が自分を外から見ることができたら面白いことでしょう。自分自身に対して薬が要ることでしょ う。神様は私達の益になるよう働かれることを、二人のノンクリスチャンの友人につい話したばかりです。それには、生まれつきの障害や子供を失くすことも含 まれます。私は荷造りをやり直したくなかったし、体調もすぐれずに、そこまで話して時間が無くなりました。現実通りにそして、教えている通りの生き方を日 々していきたいと思います。Frank Damazioがクリスチャンの指導者には、誠実な人格が絶対的に必要だと述べています。私の生き方も、私が教えている通りでなくてはなりません。

P: 天のお父様。この教訓を有り難うございます。今日のみ言葉にあるように、渦中にある時はあまり楽し くはありません。しかし、教えの中にあなたの良い御意志を読み取ることができます。もっと学べますように。ただ同じ苦しみの経験を免れるためだけではな く、心身ともに疲れ果て、慌てたりせずに、無駄にしないためでもあります。あなたのみ心を砕く事柄に私は悲しみを覚えます。Frank, Sharon Damazio,Mark Estesらから、実践的な教えをいただきました。感謝します。学んだことを実践できるように助けてください。私の内にある考えや行いを断ち切ってくださ い。あなたの望む姿の私になれますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/02/05

S: へブル10:32~39 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

O: 人間とは大変近視眼です。特にこのインスタントばやりの現在においてはなおさらです。思うような結 果が得られないと、すぐに途中で放り出してしまします。そういう人のためにこそ、今日のみ言葉は警告を発してくれています。私は日本語の、「約束のものを 手に入れるために必要なのは忍耐です。」が気に入っています。パウロが多くの頓挫に合いながらも、証しをしました。彼は確信を持って神を信じていたので す。へブル書を書いた人と新約に出てくるクリスチャンたちはパウロと同様に、外部の反対にあったのでしょう。私達ときたら、ほんの少しの反対に遭うだけ で、もうパニック状態です!しかし、私達は、今日のみ言葉が語っていることを堅い岩のように確信を持っていなくてはなりません。短期的(たとえば50年く らいとか)ではなく、神の完全なご計画と素晴らしい報いを知っていましょう。

A: 昨日、兄弟に話したように、私が大村にいるのは、信仰深いからか、頑固だからか、あるいは単なる惰 性からなのかはわかりません。しかし、神様が日本の国民を心から救いたいと願っておられるは、よく知っています。そして、それも神様の時宜にかなってなさ るのだということも。神様のなさることについて私が持っている先入観を打ち壊していただきたいのです。しかし、また私は救いが、いつ、どのように起こるか についても躍起になるべきではないでしょう。神様のご計画を見逃さないように、私は、ただ積極的に働き、忍耐強くありたいのです。

P: 天のお父様。会議と個人的な関わりを新たにできるこの特権を感謝します。家内が作ったゲームのこと を感謝します。昨夜、みんなで楽しめました。多くの人が興味を持って認めてくれました。商品化についてあなたからの導きをお願います。土曜日に、藤沢で家 内がセミナーをできること、祝福を感謝します。昨日、話した新聞社の人がいてくれれば、全てがよく運ぶことでしょう。私達が忍耐強くありますように。あな たのご計画が全て成就するために、開かれた道に向かって前進しますように。キリストの体とあなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美します!

2009/02/04

2月4日
S: テトス1:1 神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ - 私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。

O: 誰でも神よって選ばれ、送られた人は(つまり弟子なのですが)、神様の選んだ人の信仰と教えのため に働くという使命を帯びています。神様喜ばれるためです。伝道者の中には、「神に選ばれた人」という箇所に息苦しさを感じています。聖書には、はっきり と、全ての人が信じるように神は望んでおられるが、決して全ての人が信じるわけではないと、はっきりと記されています。キリスト教宣教師は、福音を明確 に、そして自分たちの属する文化圏に分かるように努力して伝えるべきです。しかし、その場合も、全ての人が受け入れないのを当然に思ってもいけません。パ ウロは福音が拒絶され、次のグループへと福音を宣べに行きました。大切なことは、パウロはくじけずに福音宣教をやめなかったことです。

A: 日本で奉仕に携わる人にとって関連した問題です。受け入れてくれるグループを見つけるのが難しいか らです。今、インドではDalitsと呼ばれるグループがあります。前の世代の宣教師たちからは、完全に軽んじられていました。日本では、誰が最も準備が できているのかを知るために、私の目を神様に開いて欲しいと思います。Frank Damazioが、昨夜、ブレークスルーは私達の心と考えに来るのだと、良いポイントをついて語っていました。私も自分の誤った概念を取り払い、何が起 こっているかがわかるように神に求めます。誰が、福音を受けたがっているのか、神がどれほど彼らを御国に呼んでおられるかを知っていたいのです。

P: 天のお父様。日本の教会のために働いていますが、常に遮りがあります。まだまだ道半ばです。どう取り払うべきか示して下さい。多くの人に福音の神髄が行き渡るようにしたいのです。彼らの救いとあなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/02/03

S: 第2テモテ1:6~7 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。

O: 聖書は、神様の主権と人間の責任の両方を強調して書いてあります。我々の限りある知識では逆説的に 思えますが、神様はそのように意図してこの宇宙を創られたのです。すべては神から出ているのですが、与えられたものを、どううまく活用するか、あるいは、 しないかは、我々人間の責任にかかっています。ここで、私はイエスが語られたタラントのたとえを思い出します。与えられたものを、安全だと思い、活用しな かったしもべは罰せられました。聖霊は臆病の霊ではありません。もし臆病の衝動に駆られることがあるならば、それは神様から来ているのではありません!決 して、出しゃばり、軽率になれと言っているのではありません。へブル書には、(ハバククより引用)「もし恐れおののくなら、私の心は喜ばない。」(へブル 10:38~39)とあります。このように、私達は神様に頂いたものを、従順のうちに正しく用いる責任があるのです。愚かに見えないか、束縛されないだろ うか、などの心配はいらないのです。

A: 私も耳に痛いです。今日のみ言葉の教えは私にはガンのように痛いです。私はこれまで何度も預言をい ただきましたが、もう何年も預言を公開していません。その大きな理由は、聞いた人がどう受け止めるかが気になるからです。けれども、自分の快適な範囲を抜 け出し、神様の望むように進んでいきたいと思います。年をとるほどに慎重になっていくのは当然ですが、それを言い訳にしてはいけないでしょう。私が思いつ いたことをベラベラ喋るのはまずいでしょうが、私を通して語りたいと思われている神様に十分用いられたいのです。目立ちすぎる個人プレーはよくありません が、そう思われるのを恐れて、行動できなくなってもいけません。何年も長いこと、私はプライドと戦ってきました。いつも付きまとう問題で、プライドから出 ていないか、あるいは人からそう思われないかが心配になり、行動できない時があります。しかし、そうしたことは気にせずに、神様から与えられたものを神様 のご栄光のために使いたいと思います。

P: 天のお父様。私への恵みと忍耐を感謝します。あなたの忍耐を試したいとは思わないのに、結果的にい つもそうしてしまっているようです。今朝、このみ言葉をはっきりと語って下さり有り難うございます。私達夫婦は、これから旅に出ますが、あなたのみ心を伝 える器でありますように。途中で出会う人達にあなたを伝えていけますように。私は最近、書くことから遠ざかっていました。どうか、紙(パソコン)に、あな たの語ることを自由に書けますように。人々にあなたのことを教えていきたいのです。信仰を持つことが、一度きりのものではなく、日々新たに継続していくも のだと覚えていけますように。今回の旅行で、特に家内の健康をお守りください。今日の道中の列車内で眠り、昨夜の睡眠不足を補えますように。今日、家内に あなたの癒しのみ業を見せてください。そして、会合、予定している友人の訪問を十分楽しめますように。大切な荷物に関しても、どうか守ってください。私の 背中が痛まずに済みますように。有り難うございます。お父様。あなたを心から信頼しています。その信頼に心から休ませて下さい。ハレルヤ!

2009/02/02

S: 第一テモテ6:9~10 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びに投げ入れる、 愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦 労をもって自分を刺し通しました。

O: 今日の節は、現在起こっている経済危機を言っているかのような内容です。残念ながら、大部分の苦し みは、この場合、実は直接、経済危機を引き起こした人たちだけにかかっているのではありません。物質欲が人間にとっての最大の病いなのです。免れることの できる人は滅多にいません。6節でパウロは、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道だと語っています。しかし、私達にそれを難しくさせている 最大の要因は、神様が私たちを理解し必要を満たして下さると、信頼できないでいることでしょう。献身したクリスチャンでさえ、現実に神様が必要をご存じで あると信じるのは難しいことのようです。なぜなら彼らは「必要」のほとんどは、単に欲しいものであると、心の奥で感じているからでしょう。そして、多分、 その通りです。神様は私たちを甘やかすことはしない、と約束なさいました。優先行為をきちんとするならば、必要は全て満たす、との約束もなさいました。今 日のみ言葉にあるように、「自分を刺し通す」ほどの過度の欲を人間が持っているから、そう約束してくださったのです。

A: 私も欲に関して完全ではありません。「神の国と義を第一に求めよ」を学んでいますが、しかし、他の 欲を失くすことは簡単ではありません。ですから、日々献身を新たにし、しかし、同時にまた、神様から祝福として頂いたものは拒まないでいたいと思います。 神様はケチな方ではありません。ですが、私が強欲になった途端、全てが崩れさるということも覚えておきたいものです。個人的に電気機械類が好きなので、必 要なものを正しく吟味できるように神様に従っていきたいと思います。神様の恵みの栄光ある豊かさに比べたら、そういったものは塵に等しいものなのですか ら。

P: 天のお父様。私への恵みを有り難うございます。物質欲に関し、私が成長できていることを感謝しま す。私の好きな電気機械類を与えて下さり有り難うございます。私に必要なカメラ、レンズ、印刷機有り難うございます。それらをあなたのご栄光のために用い ますように。PCに関して沢山の付属部品がそろっていることを感謝します。物質欲に囚われ苦しんでいる人を見て、私は嘲笑するのではなく、彼らを助けるこ とができますように。あなたとあなたの恵み、ご計画、へと導けますように。この危機にあって教会が立ち上がり、清められ、強められますように。教会が、物 質欲の囚われることの虚しさを知った人が、帰る場所となれますように。救いとあなたのご栄光のために。感謝します。神を賛えます!

2009/02/01

S:  第一テサロニケ5:5~6 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

O:  ここでもまた、今朝のメッセージのテーマに関することが書かれています。光の子供として歩め、と言うのです。この世界は時に驚くほどに暗く、他の多くの 聖書の箇所が述べるように、私達は闇の子供の活動には決して加わりません。しかし、プレッシャーは容赦なくあります。ですから、このプレッシャーに常に堅 く立ち向かうように気をつけていなくてはなりません。「目をさましていなさい」とパウロとイエスが言ったのはこういうことです。まさに、「聖なる不眠」と 言っても良いでしょう。祝福あることです。同じように、私達は、他の人が眠っているのを責めてはいけません。しかし、彼らが正しく目をさますように起こし てあげましょう。霊的に言って、全てのクリスチャンは、周囲の人が「目をさます」ようにするのが、望ましく、また義務でもあります。彼らを破壊へと向かわ せる「夢遊病」から彼らを離してあげましょう

A:  現実の問題として、私の授業中に眠っている生徒がいました。私は優しくしようと努めながらも、意思を主張しようとしました。同じことが、霊的に眠ってい る周囲の人達にも言えます。優しく接しながらも彼らの目を覚ましてあげたいのです。やかましい目ざまし時計のようであってはいけませんが、きちんと彼らを 起こしたいのです。目をうまく覚ましてあげることができなかった人たちは、その試みが賢くなかったのでしょう。彼らは拒絶されます。それはちょうど目覚ま しのアラームボタンをいきなり押して止めるようなものです。また、自分が目覚めているからと言って自慢すべきでもありません。その場合は、ただ神の恵みに 感謝しましょう。

P: 天のお父様。Jが先日の朝、蒲団から出るのを嫌がったように、私が働いている多くの人達は目を覚ますことを頑固なまでに拒みます。あなたの愛で私を助け、 彼らを助ける働きをさせてください。彼らの目が開くように、どんな機会も最大に生かして働けますように。あなたと救いについて彼らの目を覚ましますよう に。この教会の信者全員が霊的に大きく目を開き、気をつけていますように(適度な肉体の休みは取りながらも)。闇の罠にはまることなく、多くの人が御国に 導かれますように。この町で、この国で、あなたの御国がますます成長しますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009年2月13日金曜日

2009/01/31

S: コロサイ1:9~10 どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び神を知る知識を増し加えられますように。

O: これは言うまでもなく、すべての真の牧者が信者に望むことです。1世紀の教会は、現在の中国に似た 状況にありました。つまり、信者が爆発的に増え、聖書が不足し、教師が走り回ったのです。異端行動がはびこり混乱が起きました。パウロにできたのは、彼ら に手紙を書き、聖霊に頼ることでした。歴史的に見て、正しい教えができないと多くの異常な事態を招くのがわかります。しかし、また、聖霊に信頼できないで いると、福音を歪曲した、人間的な組織を多く生み出す結果になっています。イエスは、聖霊が全ての真実へと導いて下さると語りました。そしてパウロが、こ こでそのように祈っているのです。指導者自身が聖霊から学ばないなら、正しく指導ができません。信徒らの成長は望めないのです。

A:  指導において、私もかつて失敗したことがあります。問題は現時点からどの方向に進むかです。私がこれまでに学んだこと、これからも学び続けるであろうこ とを信頼し、み言葉と私が手本となることにより、教え、訓練していきたいと考えています。明日のメッセージはこうです。真にキリストについて行くには、神 に従い、喜ばせるような生き方を求めることです。そうすることによって、おのずから良い働きのあらゆる実がなるでしょう。私自身もそうした生き方をしたい ですし、信者にも同様の生きか方ができるように助けていきたいのです。

P: 天のお父様。Jがひどく落胆しています。彼が私から学んだ(と思った)ことで、私に持ったイメージ が彼の理想通りでなかったからです。彼と他の人を助けることができるように私を助けてください。彼らが、私にではなく、あなたに焦点を合わせますように。 責任をしっかりと持ち、信仰が固い基盤に立てますように。あなたをもっと教えることができるように、私が聖霊に心を十分広げていますように。欺かれないた めに、あなたのみ心にかなった成長ができるために、日々、献身を新たにできますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/01/30

S:  エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

O:  キリストに出会ったばかりのころは、どのように生きるべきかわかりません。それは、手本となる先人が、あまりいないからです。殆ど全ての手紙の中で、パ ウロは信仰の基本的なことを書き、それを日々の生活に生かすかを書いています。光の子供らしく歩くとは良いたとえです。生き方の理解がしやすくなります。 言葉の意味合いと派生はほとんど無限に広がりますが、キリストにある命もまた、無限に広がり、無限の意味合いを持っています!「光のもとへ来なさい」と は、英語ではジョークのように使われるようになっています。臨死体験の報告などをスピリチュアリスト達がしたためです。しかし、それこそ、まさに悪魔の罠 です。聖書の至るところに、神を表現するのに光が使われています。だからこそ、悪魔は光の天使にさえも姿を変えて見せるのです。光は悪魔の正反対の姿なの ですが、そうすることで多くの人を惑わしたいのです。悪魔に対抗するには、み言葉を通して、神の光を求めましょう。そして、神様が与えてくださった光の中を歩くのです。神を求めましょう。

A: 人に光を指し示すのが私の仕事です。私達は本当に世の光です。なぜなら一般の人達は閉じ込められているので、光に気づくのが難しいからです。私ジャック・ ギャロットではなく、私の内におられるキリストに気づいて欲しいのですが、それをどう人に分かってもらえるかが私にとっての難題です。昨夜、K婦人が、彼 女のご主人は信仰心からではなく(彼女はカトリックなので私をは信仰が異なる)、私の愛ある人格ゆえに教会に惹かれたのだと強く語ってくれました。本当で しょうが、それは私が誰よりも、つまりキリストからさえも高い位置に上げられるという危険を含んでいます。私のうちにおられるキリストのことを、はっきり と分かってもらえるようにしなくてはなりません。私の内にいて働いて下さる以上に、神様は人々の内に働きたいと望んでおられることも話していきたいと思っ ています。

P:  天のお父様。ご主人が愛によって導かれたことを、K婦人に示して下さり有り難うございます。彼女がご家族の中で、愛にあふれた人となる決心をしたことを 感謝します。個人的な形で、彼女に愛を示してください。そして彼女の信仰がどのようなものかを気づかせて下さい。宗教が哲学のようなものと彼女は考えてい ました。違いに気づき語ってくれたことを感謝します。仏教国日本では、そういう考えははびこっています。彼女の夫を助けてください。私が全ての人に対して 愛を、キリストにある人生が無限に素晴らしいものだと表せますように。私達が光の子どもとして歩けますように。多くの人を御国へと導いて下さい。あなたの ご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/01/29

S:  第2コリント11:14~15 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。

O:  父のように、息子のように、主人のように、しもべのように。仕えようと思う人のまねをして学ぶことができます。ですからイエスは、命によって実った実に よって人が分かると言ったのです。たとえば、口先だけ素晴らしいことを言って、実際は悪いことばかりしている人がいるとします。そうした人は、決して、正 しい主に従っているとは言えません。(だから彼らには悪いことばかり起こるのだと言っているのではありません。むしろ、そうしたことはコントロールできる ことなのです。)アル中、女たらしのピリピ人が信仰による癒しを得た話を読みました。私は、彼らが聖霊の力によって癒したとは思いません。「蛇のようにさ とく鳩のように素直でありなさい」(マタイ10:16)とイエスは言われました。騙されやすくてもいけませんが、み言葉を自分にも人にも据えるべきです。 もし、キリストとみ言葉にとどまるなら、分別が与えられ、イエスの人格を表すような生き方ができることでしょう。そうした生き方を見て人がイエスへと引き つけられます。

A:  このみ言葉とは裏腹の生き方をしている人を知っています。彼らへの最後の審判は神がなさるでしょう。教会外、内で、妬み、苦々しさ、支配欲があります。 敵の罠にはまらないように、私は霊的注意深くありたいと思います。説教壇で、またそれ以外でも、教会内で誰に権威を与えるかについて慎重にあるべきです。 神様の実を結び、キリストが私を通して輝けるように、常に透明性を持ちたいのです。

P:  天のお父様。甘言でないあなたのみ言葉を感謝します。ひどい警告だと解釈する人もいますが、現実を反映しているみ言葉です。私が騙されやすくなく、そし て邪までありませんように。子供のようでありながらも、欺かれませんように。この世のことにではなく、御国のことで成熟しますように。あなたのご栄光のた めに。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/01/28

S: 第2コリント7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしんこんで聖きを全うしようではありませんか。

O:  重要で有益で励みになるみ言葉です。暗記することを強くお勧めします。しかし、日本語では「教会」という語は深遠で分かりにくい印象を与えているようで す。その原因の一つには、日本語には、「聖」という言葉はありますが、「聖さ」という言葉がないからでしょう。それで、「聖さ」を表すために、「清さ (pure)」を用いたのでしょう。悪い解決法ではありませんが、言葉を読み取るのには、機械化した解釈はよくありません。他にも、そうした文字の組み合 わせが見られます。「身体と霊」が、「霊肉」となっていて、これでは教えが伝わりません。キリストにある望ましい姿から、こうした言葉の理解からさえも、 信者を切り離そうと悪魔はできる限りの手を尽くします。アメリカでは、悪魔はかなりうまくやっているようです。今、私が言ったことに関しては、全く問題が ありません。聖さを選択するというのが大切なことです。キリストは私たちに聖さを与えてくだいました。その聖さの中を歩きましょう。今、私達が住んでいる この世界は、ゴミ溜めです。ですから、日々、キリストの聖さにあずかるという選択をしなくてはならないのです。

A:  今日のみ言葉で、私は一度ならず、誘惑から助けられました。私は、信者に正しく説明し、教えていかなくてはなりません。言葉による解釈はどうであれ、こ の真実を伝えていくべきだからです。もちろん、私自身が常に心してキリストの道を歩くべきでしょう。この真実を激しく追及する宗派もありますが、彼らとは 聖霊の力によってコミュニケートしていき、彼らが悪魔の罠から救われることを望みます。

P:  天のお父様。日曜に私が語るべきことを明示して下さり有り難うございます。メモの準備、メッセージの語りがうまくいくように、あなたの導きと油注ぎをお願いします。8日の藤沢でも恵みをお与えください。み言葉を語る機械を与えて感謝します。あなたに誠実に、み心が成就されるようにみ言葉を語れるよう、私を用いてください。あなたのご栄光のために。感謝します。神様に賛美します!

2009/01/27

S: 第二コリント4:7 私達は、この宝を、土の器に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

O:  今日のクリスチャンの多くは、「土の中の器」は、分かりやすいようですが、「測り知れない力」という部分を実感できないのではないでしょうか。
私達は自分の弱さと非力さを痛いほどに知っているので、神の力が私達の内に働き、私たちを通して実行され るとは、信じがたいのです。昨日、私が書いたことの別の側面になります。自分のしたことを誇り、自慢したくなりますが、そうした態度は、神様の力が私たち に働いてくだるのを遠ざけてしまうことになります。ハイブリッド車や電気車の時代に、このたとえはちょっと古いかもしれませんが、ちょうど、マニュアル車 にオートマ車のエンジンスターターで動かそうとするようなものです。何年の前のことですが、交差点のど真ん中でキャブレーターにトラブルがあったのを覚え ています。何とか車を動かすことができました。動くことはできますが、遅いスピードで遠くへも行けません。頻繁に充電しないことには、どこへも行けないで しょう。同じように、私たちも自分の力の不十分さと、神の力の十分さを知っているべきです。それがわかった時にだけ、神様の業が私たちを通してなされるの を、喜びに満ちて見ることができるのです。

A: 土曜に、ミニストリーをしている友人が言いました。彼は、神の力がもっとオープンに働き、示してほ しいと望んでいる。だから自分自身に説教しているのだと語りました。正直に言って、私のミニストリーには多くの奇跡がないのか分かりません。しかし、それ でもそれは神様の方に落ち度があるわけではありません。神様のみ業が人間を通してなされる時は、私は「その場にいて、やった」のです。同時に、私に託され たことは、言い訳をせずに、誠実にやり遂げていこうと思っています。純粋さと従順さの中を歩き、キリストを伝える器として、託されたことを行いたいと思い ます。神のご栄光のために、神様の選ばれたことなら、いつでも、どんなことでもです。

P:  天のお父様。これは、ずっと持ち続けている祈りです。人々があなたを信じるように、どうぞご自身を現わして下さい。物質は一時的なものです、突き詰めて いくと、それほど大切なことではありません。しかし、現実に私たちは物質の世界に生きています。何年か前の流行歌のように、人の目は見えなくなってしまっ ています。あなたの現実が物質にはるかに勝ることを知らせるために、人々の目に物質を通して教えてください。多くの人が悔い改め、救われるためです。デニ ス・バルコームは、中国では多くの信者が奇跡を見て、それが中国で爆発的に信者が広がった大きな理由だと述べています。この国にもあなたの恵みをくださ い。彼らが闇からあなたの光へと救われるためにです。彼らの救いとあなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/26

S: 第一コリント4:7 あなたには、何か、もらったものでもないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

O: 人間のプライドとは奇妙なものです。私達は何かを誇ろうと躍起になります。しかし、それは私達に生 来備わっている価値を分からないでいるからです。他の人の価値を認められず自分に価値を置いてしまうからです。与えられたもので最善を尽くすように努力す べきであるべきです。しかし競争心は魂を破壊してしまいます。競争が生み出すのは少しの状況だけですが、神様は決して欠けることがありません。神様に真に 安心していると、競争や、がむしゃらな努力が要りません。必要なのは信仰だけです。過激、または非実際的に聞こえるかもしれませんが、私達は、自分自身や 周囲に歪んだ認識を持っています。しかし、また、この節2~3節前に書いてあるように、神様の知恵に比べたらこの世の知恵は愚かなのです。

A: よく競争の対象とされるスポーツが私には苦手です。但し、知性に関する分野では大丈夫です。これは 祝福です。けれども、これまでの過程で私はプライドの罠から抜け出せていません。私にはライバルとなるような人があまりいないのです。そして、自慢したこ とで罪悪感を覚えます。さらに、私は与えられた才能に見入るだけの力を出し切っていません。最近読んだことですが、知性とは少しづつ改善した長い過程の結 果得られるのだそうです。その点、私はまだ粘り強さを多くの点で現わしていないでしょう。主の御前で、誇るべきことではありませんが、恥いることでもあり ません。与えられた能力で与えられた働きをして、信仰深いしもべとして十分な献身をしたいと思っています。

P: 天のお父様。人は私をよく褒めてくれます。彼らをあなたのことを教えられますように。私にとてもよ くしてくれます。あなたが私に与えてくださった能力、機会を活かし、ますます信仰深くありますように。与えらえれた賜物を正しく用いる責任が私にはありま す。私が、人を励まし、人を伸ばし、解放するように助けて下さい。彼らもまた、あなたがご用意なさっている多くの実をつけますように。あなたのご栄光のた めに。感謝します。神様を賛美します!

2009/01/25

S: 第一コリント3:3 そして、ただの人のように歩んでいるではありませんか。

O: これは全ての信者にとって大きな難題です。キリストにある人は誰でも「ただの人」ではなく、聖なる 存在が内にあるのです。魚が死魚のようにあってはなりません。同じように私たちも他のただの人のようであってはありません。しかし、第2コリント4でパウ ロが言っているように、我々の内に備わっている力が我々のものではなく、神様の力であることを覚えておきましょう。ですから、その様な行いをしましょう。 信者がキリストにある自分の存在に確かに目覚めるなら、世界のシステムは様変わりし、想像以上に地獄の力も破壊されることでしょう。私はいつもそう確信し ています。

A: 私はこのメッセージを、もう6か月以上(記憶が正しければ)伝え続けていますが、私が報いを受ける 日まで、今日からこのメッセージがミニストリーのテーマとなるでしょう。私はこのメッセージの通り生きたいと思います。さもなければ無意味です。神様のみ 言葉は真実です。そして私は愛を通して、神様の真実を表したいのです。そうでなければ、私は単なるうるさい、やかましいシンバルです。私が率先して実践し なくては人に教えることなどできません。自分自身と信者とキリストを見上げ、思い、キリストに従って生きたいのです。

P: 天のお父様。私は、まるでマッシュルームクリームの中を泳いでいるかのように感じるときがありま す。どうすべきか、何をすべきか、何が正しいことかを、よく分かっているのですが進めません。昨夜は、1時間半で帰れる距離が、雪のために5時間半もかか りました。問題は状況ではなく、途中の人にも関わっていることもあるのですね。ちょうど、私が車から降りて、他の運転手に雪の中での運転を教えてやりたく なったように、ひどい環境でクリスチャンとして生きることに苦しんでいる周囲の人を助けるべきだと感じました。人を助けるのに、私が自力で頑張り過ぎない うように助けてください。私の教えることが拒絶されたり、私自身が拒絶されたと個人的に解釈すること がありませんように。彼らの反応が私に対するものではなく、あなたに対する反応だと気づかせて下さり有り難うございます。写真が忠実に写すように(日本語 の漢字はまさに字義どおりです)、忠実なあなたの代表者として、あなたが私に望むことを望む時に行えるように、感覚を整えることができますように。私がキ リストに生きるように、多くの人が導かれますように。彼らの救いと祝福とあなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/24

S: ローマ13:12、14 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

O: 光の武具を着けるとは、キリストを着ることです。エペソ6章には、同様のことがより詳しく武具につ いて述べてあります。イエスに従うなら私たちには何者も触れることはできない、とイエスは語っています。しかし、キリストに留まることは選択であり、日 々、決意を新たにしなくてはなりません。一番初めの決心は勿論大切ですが、それだけでは不十分です。イラクで、ある兵士が「今日は武具を着けないことにし よう」と言ったその日に、彼は警護中にIED(即席爆発装置)に遭うかもしれません。私達の敵である悪魔は常に、殺し、盗み、壊したがっています。ですか ら、私達は毎日キリストを身に着けるという選択をすべきです。キリストに常にいてもらいましょう。私は14節後半の日本語表現が好きです。「肉の欲のため に心を用いてはなりません」という箇所です。意思の居場所である心を、神様は私たちにお与えになりました。神様を選ぶという意思です。私達が神様の御意志 に逆らうと、防御が無くなり、あらゆる悪を生活の中に呼び入れてしまうことになるのです。心と意思をキリストに据えましょう。

A: キリストに留まるというテーマで日曜に説教をしますが、今日のみ言葉は説教の内容を強化してくれる 節です。これは誰よりも自分自身に必要なみ言葉です。戦いは実は私の心の中で起こっていると長年知っています。私の外で起こる出来事が良いことであれ、悪 いことであれ、出来事に対して私が心の中でどのように反応するかが最も大切なのです。人にそうするように勧めていますが、私も一日の始めにキリストを新し く着て、日々、イエスに留まっているべきです。悪魔の策略が打ち壊され、キリストの勝利が私を通して明らかにされる神のご栄光のためです。

P: 天のお父様。このことを気づかせて下さり有り難うございます。悪魔が私の内で激しく攻撃していま す。他の人を助けることができるように私を強めてください。私は霊的なコーチングの本について語りました。信者が武具を身につけ、戦うよう、私が良いコー チとなれるように助けてください。盲点で苦しむことがありませんように。コーチングを頼める人に導いて下さい。そして私自身が人をコーチできるように私の 言葉を導いて下さい。私達が共にあなたのみ心を行えますように。あなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美します!

2009/01/23

S: ローマ2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか?

O: 今日のみ言葉に関して、聖書の主張は本当に一貫しています。知的な同意だけでは不十分なのです。私 達は教えに添うよう求められています。モーセからヨハネまで作者らはこの点を明確にしています。信仰を通して恵みによって救われるのです。告白の瞬間が救 いの瞬間です。信仰と信じたことを現実として生きることです。行うに難く、教えるに易し、という古い 諺があります。聖書では、真実を語る教師でありながら、真実のある生き方をしていないならば、それは何の益にもならない、と教えています。クリスチャンの 信仰は、絶対的に世界中で最も実践できるものです。それを、目の前にある危険のために忘れてしまっています。祖父がよく引用していていたのですが、「困難 から出て祝福へ」というのは、始めからは誤ったことです。イエスを救い主として受け入れることは、主であるイエス従うことを意味します。

A: 私は人生の中でこの問題に直面します。神に関する知識がまるで空気のように自然な家庭で私は育ちま した。しかし、それでも理屈の上での知識と、心から従うことのギャップに苦しむという辛い経験をしました。さらに、私には教師としての賜物と使命が与えら れています。つまり、神の真実を常に人に教えなくてはならないということです。ヤコブが言うように、私のような立場にある者は高い基準に従っているべきな のです。なぜなら教える立場にあるからです。もし、私の生き方が、普段私が語っているようなものでないとしたら、それは自分を欺いていることであり嘘の生 き方です。全く神様の恵みです!パウロのように、神様を知るほどに、私は自分自身が期待に添えていないことが分かります。み心と、私に神様がこれからも働 いてくだることを信じていきます。

P: 天のお父様。あなたの恵みに再び、感謝します。教えるという最高の名誉と特権を与えて下り感謝しま す。私は教えることを軽んじません。ただ教訓を示すだけでなく、あなたの真実、めぐみ、愛を表せますように。私への忍耐を感謝します。私が今いる状況に満 足することなく、あなたの考え、み言葉、行いに向かって歩き続けていけるように助けてください。あなたの喜びとご栄光のために。有り難うございます。神様 を賛美します!

2009/01/22

S: 使徒26:17~18 「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣 わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとさ れた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」

O: これは、まさに宣教者の使命でしょう。困難、危険がないことの保障ではなく、むしろ困難、危険を伴 うと明言されています。次の節で、パウロは「悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしいわざを行うようにせよ。」(20節)と人々に説いています。宣 教においては、身体的、精神的な要素が重要です。しかし、それで、
悔い改めを教えることに失敗してはいけません。正直に言って、この点、私はマザーテレサに問題を感じてい ます。私の知るところでは、彼女は人々をキリストへ立ち返らせようとはしなかったからです。身体的にしっかりし、憐みを表すことは、大変重要なことです。 これは、イエスが羊とヤギの物語ではっきりと語っていることです。しかし、永遠の命を教えることなしに、人の死への怖れを緩和しようとするのは全く馬鹿げ ています。

A: 私はこうした課題に常に気を留めていたいと思います。罪、悔い改めについて語ることは社会的に見て ぎこちないことですが、私はそうしたことは気にしません。今日と明日、信徒の通夜と葬儀に出席できます。私は故人の真の悔い改めに立ち会いました。そし て、悔い改め後の彼の生き方はまさに正しいものでした。そうした彼の生き方こそ、遺族への大きな遺産でしょう。聖霊が与え、強めてくれるみ言葉を私は伝え ていかなくてはなりません。人々を悔い改めと信仰へと導いたパウロのように私も大胆に、そして自分のことばかり気に掛けずに、多くの人が救いを聞けるよう にしたいものです。

P: 天のお父様。Kさんが苦しみから解放されたことを感謝します。彼が亡くなる前日に見舞えたことを感 謝します。家族からの連絡はなかったのですが、それでも彼の死去に私が関われたことを感謝します。今夜の通夜と明日の葬儀に出席します。私が出席すること を快く思わない遺族の方がおられるかもしれません。私を通してあなたの恵みが彼らの心に伝わるように整えてください。私がでしゃばり、おこがましくなった りしませんように。むしろ、あなたの恵みと愛を伝える器として働けますように。聖霊様が私を通して自由に働いて下さい。あなたのご栄光のために。感謝しま す。神様を賛美します!

2009/01/21

S:使徒22:16「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」

O: この箇所のように、アナニヤが勧めていなかったら、学者だったパウロは、バプテスマを受けるための決心に、少なくともあと2~3日を要したことでしょう。
Kが経験したように、人と直接に向き合うことこそ、実は人が求めていることであったりします。話し手は彼 女も、彼女の状況も知らなかったのですが、彼を通して聖霊が彼女にためらうこと、献身することをやめさせました。さらに、アナニヤは、当時の一般的だった バプテスマの、罪を洗い流すイメージを用いました。こうしたイメージは現在、あまり使われていません。その大きな理由は、神学論的正確さを競うための屁理 屈のためで、一般の人には理解できないことです。

A: 私は、人が献身しバプテスマを受けるタイミングを聖霊様に頼ります。そして、人がバプテスマで成す ことの意味と、イエスを主としてついて行くことの意味を理解しているかを確認しなくてはなりません。罪を洗い流すというイメージを用いることもできるで しょう。もっとも、私はこれまでバプテスマを語る時にそのイメージを語ったことがあるかどうかは定かではありませんが。日本人は確かに、洗い流すというこ とを分かってくれます。勿論、私はバプテスマを受けた人に注意深く伴走し、彼らがみ言葉にしっかり立ち、信仰と服従の意味においての成長を手助けしていき ます。

P: 天のお父様。献身しバプテスマを受ける準備のできた人が何人かいます。しかし、数人かが洗礼を受 け、その後に私は臆しています。私が自分の願望に立って、行動を起こすことのないように、はっきりとした導きを与えてください。そして、あなたが備えてく ださっている機会を見失いませんように。Fさんが定期的に礼拝に来てくれています。しかし、まだクリスチャンになるには至っていないようです。Yさんは、 私の話を良く聞いてくれていますが、彼が理解に必要なパワーフォーリビングの本を彼が読んだかどうかはわかりません。FさんとNさんは私から色々な方法で 福音を聞いていますが、まだ気持ちははっきりとしていないようです。Iさんは多分、心がほぐれてきています。主よ、この男性達の救いを私は望んでいます。 しかし、あなたはもっと望んでおられます。聖霊様が彼らに働いて下さい。私が彼らに語るタイミングを示して下さい。彼らがあなたの家族になるための決断の 時を示して下さい。彼らの救いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009年2月12日木曜日

2009/01/20

S:使徒16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生たち。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。

O: ピリピ人の獄吏は救いに何が必要かを気づいていたのでしょう。「いと高き神に仕える僕達」の話をす でに聞いていたのかもしれません。それで、他の神が助けに来ないように、厳重に幽閉したのでしょう。獄吏は彼らを神から離すことはできないと悟り、惨めに 恐れ、救いの道を尋ねたのです。救いの必要に気づくことは、救いを受けるために必要な条件です。聖書では、「罪、義と裁き」をするのは聖霊であり、人間の 理屈で為すべきでないと言っているのです。救いの前には迷わなくてはならないとの発言は、まさに真実です。しかし、そのいずれも、なして下さるのは聖霊様 のみです。

A: 福員の大きな妨げとなっている仏教ために、救いの概念を殆ど持たない社会に私はいます。だから、病 院のお見舞いは非常に効果があります。入院患者は自分たちに必要なことを自覚しているからです。私はそうした病院見舞いには、必ず聖霊に導かれて行きま す。患者の心に聖霊様が働いてくれるよう信頼します。そして福音を大胆に語るようにしています。ピリピ人の獄吏がパウロとシラスに救いを尋ねたあと、パウ ロらは明らかに1~2時間かけて福音を教えています。獄吏とその家族が理解し、受け、バプテスマを受けるためです。そして、パウロが説明したように、教え ることは私の仕事です。ひるんでなどいられません。いつも聖霊の導きと油注ぎによって伝えていきます。

P: 天のお父様。きのうYさんとの時間が持てたことを感謝します。これからも彼を訪問しますが、私に はっきりとした導きと油注ぎをお願いします。彼の身体的、霊的な必要に彼が気づき、あなたを無視したことを悔い改め、救いを信じますように。大村の人すべ てが救いの必要に気づくよう彼らの心に働いて下さい。そして大村の信者らが福音を伝えていけますように。御国に大きな実りがありますように。あなたのご栄 光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/19

S: 使徒13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

O: これこそ全ての牧師が信者に望むことです。しかし、今日の節の内容にも、かつてはひどい反対があっ たことを知っていてください。反対のない所では、教会はしばしば軟弱になり、自力で立てません。その意味で中国は素晴らしい例です。広範で予測不能な対抗 がありますが、中国の教会は実に喜びと聖霊があふれています。あらゆる所で聖霊様が関わっています。アメリカでは、かつてなかったほど、真の教会から逆行 する時代になってきています。キリスト教の名の下に多くのことが起こっていますが。私には不快であり、きっと神様も不快に思っておいででしょう。闇が暗け れば暗いほど、光はますます明るいのです。真に光を求める人は光を見出します。しかし、闇を愛する人は、その邪悪な行いのために、覆いがかぶさってしまい ます。それでも、闇の神から隠れることはできません。ですから、神を信頼する者は落胆せずに、むしろ、今日のみ言葉のように、喜びと聖霊に満たされていま しょう。

A: 類をみないほどクリスチャンの迫害の歴史を持つ日本は特異な立場にあります。周囲と適合させようとして、迫害を加えても、恐らくそれは良い結果につながるだろうということが、最近の研究で分かりました。周 囲との調和に最も大切にし、しかし、倫理観はその時によって変わったりする人達がいます。私とは違った世界の人たちですが、彼らを招くという難題を私は与 えられています。これは、喜びや聖霊に満たされることにつながるような対立ではありません。選択権は私にあります。神様はその喜びと満たしを私に下さいま す。私はそれらを受けるという選択をしなくてはならないのです。自分や状況にばかり目を向けずに神に焦点を合わせながら。神にとって不可能はあり得ないの ですから。

P: 天のお父様。励ましを有り難うございます。昨日、二人礼拝に来てくれました。インターネットを見た 彼らは、聖霊によってここに来てくれました。一人は完全にただ訪れただけの人です。もう一人は家が遠いようですが教会員になってくれそうです。私達がまだ 関わっていない人たちを、あなたはここに連れてきてくださっています。感謝します!あなたのみ業に目を留め、ご計画に喜んで加わり、成就しますように。感 謝します。神様を賛美します!

2009/01/18

S: 使徒13:9~10 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよがみに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。」

O: 聖霊に満たされた人がいるときに、こうした意見はまず言わないでしょう。しかし、この箇所を読ん で、第二次世界大戦以来、教会につきつけらている超平和主義を思います。「もう片方の頬を向けよ」は不快に引用され、神様は私たちを平和をもたらすように おっしゃいました。違いは、自分たちを守るためになのか、神のみ言葉を根底に正しく立っているかにあります。神様が私達の守り手になってくださいます。し かし、時には、他の人や真実を守るために、(今日の節が良い例です)神様の使い手として働くように求められます。

A: 私自身は平和主義になりがちです。争い事は好みませんし、避けられそうなことは極力そうしていま す。しかし、それもまた、全く逆効果になったりします。争い事は好みませんが、そこから逃げることもよくありません。戦後、日本社会は確かに平和主義にな りつつあります。その一方、個人レベルでは、日本人間で争いになり、他国々と同様で、殺人さえもあります。正しいことのために、私はしっかりと立っていた いものです。キリストの体を攻撃しようとする悪魔に動じないようにしていたいものです。また、単なる人間のやり方に頼らないように気をつけたいものです。 第2コリント10:3~5でパウロが言っているように、私もまた、神に従い、ためらわずに神から頂いた武器を用いたいと思います。

P: 天のお父様。ひどい戦いになっています。私がどのような立場にいるべきかを示して下さい。私が苦し むより、むしろ悪魔の策略が壊されますように。私の考えと発言において、誰が本当の敵であるのかを明らかにしてください。悪魔に用いられた人たちでさえ、 悔い改め救われますように。自己防衛から私を遠ざけてください。しかし、大胆に敵と戦えるように助けてください。あなたのご栄光のために。感謝します。ハ レルヤ!

2009/01/17

S:使徒12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

O:信徒が集まり、祈り続けると、素晴らしいことが起こります。この話の中でもっとも意義深いことは、信 者の信仰はむしろ弱かったのですが、それでも神様が彼らの信仰に応えて下さってたことです。熱心に祈り続け、神様が彼らの祈りに応えてくださったのに、彼 らは信じなかったのです。実際、彼らは、神様がどのようにしてペテロを助けたかを想像できませんでした。それでも、彼らには神様だけが唯一の希望でした。 とりわけ、ヤコブが処刑されて以来、彼らは絶望的になり、神に恵みと憐れみを求めました。それも、まずくはありません。私達は、問題をどう正すか、神に命 じたりしますが、神様は常に私たちよりも良い解決法をご存知です。具体的に祈るのは良いことですが、祈りには基本があるべきです。そして、聞き入れられる のです。

A: 私の祈りの熱心さと恐れは、どうでしょうか?祈りのない人生など想像もできませんが、正直に言っ て、私は祈りがよく理解できていません。人が祈りにどれほどの時間と労を費やしているか、私は心がけていたいと思います。創造の時、神様は、自由意思の一 つとして、地上で人間に権威を与えてくださったのですから、神に祈ることの重要さは漠然と理解できます。その権威を神に差し出すのですから、神様が働いて 下さるのです。けれども、私は明確な祈りの教義というものを、聖書の中で見つけることができません。神様は私たちに祈るよう教え、神様が祈りに応えて下さ るというご性質の方だということは分かります。しかし、祈りが愚かで、限りある人間が全能の神様のご計画に影響を与える、という説明を見つけることもでき ません。三位一体のように、多くの説明を要しないことなのです。“分析ばかりして麻痺してしまう”のはやめにして、私に必要なことを、祈りの中を通して、 聖霊様が教えて下さるように祈ります。そして、私の祈りを通して、神様の御意志が成就することを願います。

P: 天のお父様。私の周りには祈りを必要とする人があまりにも多くて、全部を祈れない時があります。何 を、どのように祈るべきかを示して下さい。この教会の各家庭にそれぞれ祈りが求められています。すぐ周りの人たちに問題があり、世界中のキリストにある兄 弟姉妹も問題を抱えています。異言の賜物を感謝します。私がどう祈りだすか分からない時も、聖霊様が祈って下さるのです。愛ある祈りを信者に分かち合えま すように。あなたが聞いていてくだると信頼すること、あなたが答えてくださること、リラックスしていいということを、彼らに教えたいのです。祈りの特権を 感謝します。軽んじたり、やめたりしませんように。祈りを通しても、あなたのみ心に献身できますように。あなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美 します!

2009/01/16

S: 使徒9:5、15~16 彼が、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「私 は、あなたが迫害しているイエスです。」しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人は私の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わた しの運びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

O: 水曜日にエホバの証人の方と話をしたのですが、私は、このみ言葉を覚えておけばよかったのにと思い ます。彼らは神の御名に固執し、イエスを神ではないと主張します。しかし、今日のみ言葉には、イエスの御名が異邦人と王たちに運ばれる、と書いてあるので す。ペテロはサンヘドリンの前で、「この人による以外に救いはない。」とも言い切っています(使徒4:12)。イエスは神の一部です。それ以外を主張する のは悪魔です(エホバ、モルモン)。彼らの教えの危険さは、教えに多くの真実を織り交ぜながら、最も根幹となる教えを巧妙に歪曲している点にあります。ピ リピ2:6~11(この聖句も、エホバの人と話した時に引用すべきでした)でパウロが、イエスの御名によって、あらゆるものがひざをかがめ、「イエス・キ リストは主である」と告白して、栄光を父に帰するためである。と言っています。第一ヨハネ2:23にも、御子を否定する者は父を持たず、御子を愛する者 は、また父を持つのである、とはっきり書いてあります。聖書には、「三位一体」の表現は出てきませんが、しかし、三位一体によってイエスの神性が明確に現 わされています。

A: 聖書に関してエホバの方たちに、私はとてもうまく答えることができ、自分でも感心しています。しか し、主が私に私に覚えておくように言われた3つのことを忘れていました。彼らのような人たちと面と向かって話をするには、私の方が備わっているのです。や はり、私はまだまだ改めるべきでしょう。主が私に与えてくださったことにおごらず、常に謙虚な感謝の心で神に従いたいと思います。神様のみ心をみ力が、私 を通してなされ、人々を因われから解放し、神に栄光を帰したいのです。

P: 天のお父様。私はこれまでにない大変な戦いの時を与えられています。Fさんご家族に愛を示すことが できました。丸田さんのおかげで病院へも行けました。今日、私が彼らとうまく関わりを持ち、とりなせるように助けてください。彼らの霊的、経済的な必要を ご用意ください。キリストのうちにあって、家族全員が一つになれますように。そして、彼らが救われ、あなたにご栄光が帰せられますように。感謝します。主 を賛美します!

2009/01/15

S: ヨハネ12:42~43 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したのである。

O: こうしたことは、本当に日本ではよく見られることです。ある時期、アメリカでは信仰を告白し、イエ スに従うことは尊敬の対象でしたが、今や、ますます軽んじられるようになっています。日本では、キリスト教は外国の教えとして捉えられており、素晴らしい 教えでありながら、イエスに信奉する人は、国家や人種に不忠実と見なされるようです。こうした考えは一夜にして変わることはないでしょう。伝道を志す者に とっては難しい問題です。比較的最近まで、クリスチャンになった人たちが否定されるのは珍しくありませんでした。調査を恐れ、少なくとも信仰告白をため らった人は多くいました。しかし、これはある意味で祝福です。なせなら、迫害に直面してもなお、信奉した人達は妨げだった壁を焼き払い、キリストに仕える 者として信仰を深めていったのですから。いずれにせよ、何よりもキリストを愛するように私達は求められています。

A: イエスを信じながらも、家族や集団を恐れ、信仰を公にできない人がいます。聞いていて、そうした人 たちの気持ちはよく分かります。彼らが、そうした因習を乗り越えられるように聖霊の油注ぎを求めます。私にも知恵が必要です。注意するだけでは、逆効果に なります。それに、私には彼らを見下すことはできません。因習の因われを恐れ、これまでに失敗したことが多くあります。現実的に見ても、私自身、神様より も人を恐れていることがよくあるのです。拒絶を覚悟してでも、私は隣人を愛そうと思います。彼らを永遠へと導きたいからです。思いきらないと何も得られな い、という言葉は、まさに真実を含んでいます。キリストにある兄弟、姉妹を得るためにも、私は拒絶を恐れずに行動したいと思います。

P: 天のお父様。この分野での私の弱さ、失敗を教えて下り感謝します。伝道で億劫になっているのは、私 が人を気にしているからです。そして、それは間違いです。病院で私は患者さんたちのために祈ることができました。少しばかりの大胆さを下さったことを感謝 します。彼らの反応が良かったことも感謝します。人からの拒絶よりも、あなたを真に恐れることができますように。彼らを愛し、多くの人たちをあなたの御国 に導けますように。救いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/01/14

S: ヨハネ12:26 「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」

O: 素晴らしい約束と難題が込められた句です。イエスについて行くことは、苦悩と死が待ち構えているの を知りながら、信仰を持ち、イエスと同じように行動することです。けれども、イエスを思うと、イエスと共にいられることがとても栄光に満ちていて、苦悩が 小さなことに思えます。イエスに仕える全ての者に報いて下さるのです。天でイエスと共にいるという報いがどれほど素晴らしいことかわかりません。神様に全 てお任せします。クリスチャンの生活は怯えることはありません。十分、値することです。初めはイエスに従いながらも、途中で背を向けた人達を、イエスは大 変、悪く言いました。神様の望んでおられるのは、変わらぬ信仰なのです。

A: 私が大村で生涯を終えるのが、神様から求められていることなのか、或いは慣性でそうなったのか、正 直に言ってわかりません。しかし、私たち夫婦が長くこの地に住んで働いたことで実を結んでいると思います。他のやり方だったら、これほどの結果は得られて いなかったでしょう。しかし、私は自分が正しく頑張ってきたからと言って、自分をほめたくはありません。神様は消極的にではなく、積極的な信仰を望んでお られるからです。私の動機、やり方は、イエスに仕えることから出ているべきです。決して、私の生活、快適、楽しさ、利便、などのためであってはなりませ ん。イエスが示したように、ただ神を愛し、隣人を愛し、何よりもイエスを愛していきたいのです。

P: 天のお父様。様々な場面で大変な人生を生きている兄弟、姉妹に比べると、私の人生は楽なものです。 感謝します。心の中で、あるいはあからさまに不平を言いいました。赦して下さい。あなたからの聖霊様によって、イエスに仕えることができるように助けてく ださい。イエスのようになり、イエスの足跡を追い、あなたから託された私へのみ心が成就しますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。神様 を賛美します!

2009/01/13

S: ヨハネ11:14~16 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだ のです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるために、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼の元に行きま しょう。」そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

O: 私は当初、弟子たち、あるいは少なくともトマスは、イエスの意味したことを考えたのだと理解してい ました。しかし、ダビデ王の時代まで遡って、「行く」という言葉を見てみると、死人は死んでしまっているのだという意味の表現だと気づきます。弟子たち は、エルサレムの指導者たちがイエスを殺したがっているのを知っていました。それで、ここではイエスは死人のいる方向のことを言ったのです。トマスの言っ た献身の言葉が際立っています。彼はどこにでも行く、たとえそれが死であっても、イエスについて行くのであれば従うと言ったのです。のちに、トマスがはる ばるインドまで福音を広げに行ったと伝えられていますが、まったく彼の信仰があればそれも当然です。イエスは、弟子たちの献身に報いることができたのです から、ラザロを生き返らせてイエスは喜んだのでした。もっともトマスは、イエスの復活を信じなかったのですから、トマスは部分的にしか寄与していなかった のですが。

A: 私は自分の献身度がどれくらいなのか気になります。殉教の形でイエスに着いて行くことを求められた ことはありません。果たして、不自由さがあってもイエスに従うのを躊躇しないでしょうか?失意の中にあってはどうでしょうか?挫折する状況ではどうでしょ うか?自分の未熟さに驚かされる時があります。私は、へブル書にあるように「信仰の完成者、作者であるイエスに目を向けて」いたいと思います。そしてこれ からのレースに忍耐を持って走りたいものです。よく言われるように、それは50メートル走ではなく、長距離マラソンかそれ以上に長いのです。二度以上、私 はリタイヤしそうになりましたが、そのたびにいつも主が私を連れ戻して下さったのです。ですから、焦点をゴールに向け、忍耐強くあり、気をそらされること なく、道から外れず、減速することなく、さらに走り抜きたいのです。神様は私に自由意思をくださいました。私は、神様に完全なる献身をもってお返ししたい のです。

P: 天のお父様。瞬時の理解を感謝します。すべての道でイエスに従えるように、私が信者の模範となれる ように助けてください。日曜にこのことをテーマに説教しようと思いましたが、今は、信者はプレッシャーに感じることでしょう。マーク・コナーのCDを有り 難うございます。他にも沢山のメッセージが入っていました。信者に必要な知識とすべきことを訓練し、教えるために、あなたに従い働けますように。必要な時 間と労を惜しまず、人々をあなたへ引き寄せるための働きができますように。そして、彼らの障害を取り除くことを助けることができますように。あなたのみ心 である勝利を私たちが経験できますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/12

S: ヨハネ9:5 「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

O: この節は、他の二つの「世の光」の節と繋がっています。(日本語では、マタイ5:4に見られるように、「世界の光」という違った表現になっています)
イエスが地上を歩かれたときには、神がそこにいました。しかし、イエスの昇天後、私達がその役を担わなく てはなりません。イエスはインマニュエルなのです。神がユニークな方法で共におられるのです。しかし、それでも、イエスは聖霊様がイエスに宿ってから、ミ ニストリーを始められました。その同じ聖霊が信者一人ひとりに働いているのです。イエスがなさったよりも、信者はさらに大きな働きをするように、イエスが 語ったことがヨハネ14:12に書いてあります。月の前半に私が、このことを書いた時に、難しいと感じた人が大勢いて、怠りました。信者には大きな責任が 求められているからです。自力でできないことを謙虚に認めるだけでなく、神にならできるのだという信仰を持って、神様の助けを借りて、働きをするべきなの です。

A: 私はこのことを原理としては分かっているのですが、実行には移すのは難しいことです。神様を信頼 し、悪魔を追い払い、病人をいやし、死んだ人さえも起き上がらせる神が私に働いて下さることを期待しています。神様は変わることがないのです。私は恐れで 愚かに見えることのないようにし、神様のご栄光のために用いられたいのです。

P: 天のお父様。全てがあなたを深く信頼してこそ、なのです。純粋にあなたの道を歩き、私自身から目を そらすべきなのです。どうか私がそうできるように助けて下さい。そして、私の内に働いて下さり、多くの人が悔い改め、信仰へと導かれますように。救いとあ なたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/11

S: ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

O: この聖句は、クリスチャンソングにもある有名な句ですが、聖書に書かれている多くの箇所と同様に、 どれほど信じるべきかが疑問です。第一に、イエスに従うのが、どういうことなのか曖昧な理解しかできていません。ただ同じように進むだけではなく、イエス の足跡に沿って歩むのです。つまり、そのためには、従順と献身が求められます。闇にいると思うクリスチャンがいるなら、その人は、先ず、主が語られたこと に従っていたかを振り返る必要があるでしょう。そうした場合には、通常、悔い改めがいります。そして悔い改めには真の赦しと光が与えられるのです。

A: 私はこのことを教えていますが、私自身、闇に紛れないように気をつけていたいものです。悪魔が力を 尽くして妨害に出るのですから。私達の光の源はイエスであることを覚え、教えていきたいと思います。そして周囲の人たちの心と命に光を伝える「光ファイ バー」として、さらに効果的に働きたいのです。そのような光による自信は太陽光から得る自信と同様の判断力を与えてくれます。

P: 天のお父様。あなたの光を感謝します。信仰を持って歩けるように助けてください。さらに多くの人を導いて下さい。光を運ぶ人が大勢になり、闇の力を追い払い、この町に、この国に、この世界に命を与えてください。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009年2月11日水曜日

2009/1/10

S: ヨハネ5:44 「互いに栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」

O: 教の説を読むと、平均的な日本人がなぜイエスを信じ難いのかが分かります。人からどう思われるかと いう視点に幼いころから慣れ過ぎていて、神の立場から自分を見ることができなくなっているのです。日本は「そんなことをしたら他人様から笑われる」という 見方を持つ社会で、人からの視線をひどく気にして、しつけの道具にまでなっているのですが、西洋人には理解できません。アメリカ社会は個人主義の方向に向 かっています。それが、また神から背く一因にもなっています。しかし、日本の場合は、人と違うことで怖れを感じさせ、結果として教会に行きにくくさせてい ます。都会のミニストリーに見られるように、日本の反抗期にある十代の若者は伝道のよい機会となっています。日本の若者は人と違っていたいと思っています が、それは、自分は仲間内にいて、他のグループとは違いたいという意識にあるようです。とても面白いことです。

A: 私は魔法の杖を使い、祈ることで、日本社会を即座に変えることはできません。しかし、真摯に祈り、 個人的に人と関わることはできます。日本では、「臨界量」は本当に重大なのです。日本人は大変な消費の欲求を持っていて、所有したがるからです。今いる信 者に、彼らがキリストの体の一部であることの確信を与えていきたいと思います。キリストの体は大きいので、比較的に小さく閉鎖的な日本社会から仲間を抜け 出させて、安心して一体となるよう誘ってほしいのです。彼らを受け入れる前に、変わることを求めるのではなく、イエスががそうしたように、彼らのあるがま まの状態で受け入れ、愛したいのです。私は日本の文化基準に逆らうつもりは毛頭ありません。ただ、キリストに彼らを導きたいだけなのです。

P: 天のお父様。このみ言葉を感謝します。とても大切なみ言葉です。しかし、私には実行に至るまで、多 くの導きが必要です。干からびた骨に肉を与える方法を示して下さい。人々が真に立ち上がり、力ある兵士となり、あなたの御国に行き、この国であなたのみ心 通りに働けますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/01/09

S: ヨハネ3:18 御子をを信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

O: ノンクリスチャンにとっても、クイスチャンにとってもこの節は難しいポイントです。ただ信じなかっ たために非難されるのは不公平だと彼らは言います。しかし、キリスト信仰は究極の選択であり、その決断を下す責任は私たちにあるのです。聖書には、信仰は 全ての人への賜物ですが、受け取る選択をすべきだと書いてあります。

A: これは、私がよく見てきたことですが、信仰の選択は”素直に信じる”ことなのですが、私達はコントロールされているかのように思いたがります。神様の差し出すものは、この世のことよりも、私達の 思いつくことよりも素晴らしいものです。悪魔が人の心を曇らせますが、それ以上に、人は間違った価値観や物事の優先順位、束の間の肉の喜び、周囲の人たち の関わり、などで自分の心を曇らせてもいます。創造主との調和ある関わり、聖霊との永遠の喜びより、優先してしまうのです。最後に挙げた周囲との調和は、 まさに日本で福音を広めることの、恐らく最大の障壁です。家内と私は、家族や友人と“一心同体”でいたいがために、永遠の命を受け取らないという選択をす る日本人と多く出会ってきました。私は、正しい選択であっても、無理強いすることはできません。神様の与えて下さる真実をあらゆる人が受け取れるように伝 え、聖霊に用いられたいと思います。

P: 天のお父様。Mさん、Yさん、Nさんと同室であったことを感謝します。Mさん、Yさんとは特に関わ りが持てたこと、Mさんと奥さんとは積極的に福音を分かち合えました。彼らはただじっと聞いているだけではありましたが。今朝、チャンスと油注ぎをお願い します。はっきりとしたみ言葉を与えてください。そして、明日見舞いに戻った時に良い影響をあたえることができますように。お父様、同室の患者さんたちは 病気と闘っています。身体的に命を脅かされているのです。あなたの御霊によって障壁を取り除き、彼らが永遠の命を得るように祈ります。生きる勇気を彼らに 与えてください。それは単にこの世で生きるのではなく、永遠に生きれるようにです。彼らの救いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。感謝しま す。ハレルヤ!

2009/01/08

S: ルカ16:10 小さい事で忠実な人は、大きな事でも忠実であり、小さな事で不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。

O: この節全体(1~15)に、じっくり考え、自己吟味に値する内容が書かれています。上記の節は全体 の要旨だと私は感じます。この世で起こることは、どんなに重要なことであっても、永遠の神の御国に比べたら、取るに足りない小さなことです。この世の出来 事は一時的ですから、私達のものだとは言えないのす。イエスは、天の父は喜んで私たちに御国を与えると言いました。つまり、天の御国は私達のものになるの だということです。本当に価値あるもの、永遠のもののために、この世での出来事はよい訓練の基礎となっています。今日のみ言葉がはっきりと語っているよう に、この世の関わりから抜け出せるのではありません。私達は御国を付託されているのですから。パウロは、誠実な信仰は仕えることであり、イエスはルカ12 で与えられるほどに、仕えなくてはならないと言っています。誰でも持っている物を正直に、そして同様の誠実さで行い考えてみるべきでしょう。神様に喜んで いただき、ご栄光を与えるためにです。

A: この問題を考えると、私はまさに神様の恵みを大きく感じます。私はとても祝福を受けているのです が、私は本当に少ししかやっていないからです。また、慌てたり、疲れ果てたりすることのないように気をつけていたいものです。それでは、与えらた仕える仕 事ができなくなってしまいますから。今回の入院は無理やりに取らされた休みのような感じです。しかし、ここで、同室の患者さんを知るという良い経験ができ ました。さらに、教会メンバーが様々な分野での成長を知ることができました。神様が与えてくださった資質と能力をいつも求めて、再起に向けたいと思います (肉体的な側面で)。持っていること、能力への個人的な高慢は捨て去り、それらはすべて神からのものであると確信を持ち、神様を喜ばせ、ご栄光を帰すため に働きたいのです。

P: 天のお父様。お恵みを感謝します。私に与えてくださったこと、与えられた能力を十分生かしきれずに 不従順であったにもかかわらず、仕打ちのなかったことを感謝します。一つ一つの領域で成長できるように助けてください。私の手にあるものが、全てあなたの ために用いられますように。あなたの御国へと進み、多くの人を導けますように。救いとご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/07

S: ルカ11:35 「だから、あなたがたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」

O: 暗闇の真っただ中にいる人には、この節の言うような光に殆ど気がつきません。それは、彼らが自分たちの置かれた状況と、照らし合わすことのできる光を経験した事がないからです。英語訳 は、「暗やみでないように」、日本語訳では、「暗やみにならないように」となっています。光を全く知らない人には、参照すべき基準が分からないでしょう。 しかし、聖書には、真実を知っていながらも背いた人のことが書いてあります。そうした人たちのことを今日の節では述べているのでしょう。残念なことです が、真実の側面を知りながらも、その真実に鍵をかけてしまい、他の真実さえも否定する人がいるのは珍しくありません。それは、彼らが自分の知っている知識 と辻褄が合わずに、その過程の中で、虚偽を信じてしまうからです。聖霊の賜物が途切れがちな立場にいる人をよく見受けます。そうした人達は、概して、霊感 と聖書の権威を主張しがちですが、木を否定し、そのために大きな森を否定します。聖書の最高のコメント書は聖書なのです。そして最高の教師は聖霊様なので す。

A: 私は聖書に対抗しようとする動きに立ち向かったことは何度もあります。欺きの罠にはまらないように 気をつけていなくてはいけません。“新事実”などではなく、聖霊の啓示と、聖霊様の語りかけに、いつも心を開いていたいものです。欺きにあっている人を私 は憐み、しかし、私の”知識”に高慢になることがあってはいけません。私は教会を指導し、真実へと導き、過ちから信者を守るという難しい仕事を託されてい るのです。聖霊の知恵と力で、私はみ言葉に注意深くあり、教え、諌めることに勤しんでいきます。

P: 天のお父様。気づかせて下さり感謝します。エホ バの証人のことで、Jが私を呼び、うまく話ができました。エホバの人達は今日もJを訪ねるでしょう。Jが彼の知識でしっかりと立ち、惑わされたり、欺かれ たりしませんように、助けてください。彼があなたのみ言葉にしっかりと根を張り、強く成長できますように。わたしが彼を導き、積極的な信仰の成長と知識が 増し加わりますように。あなたの御国の強い力となれますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/06

S: ルカ10:16 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒むものは、わたしを拒むものです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むものです。」

O: この節の内容には深い内容が込められているので、私はこの節を繰り返し読んでいます。反応がとても 遅い日本のような国では特にそうです。英訳では、信者に耳を傾ける行いがキリストに耳を傾けると言っているかのようであり、一方、日本語では、キリストに 耳を傾ける信者に耳を傾ける者について述べているように受け取れます。私は間違いなく、翻訳に問題があると思います。元のギリシャ語も、その微妙な意味合 いも私は知りませんが、両語とも意味判断においては十分正当化できるものでしょう。聖書をこれまでの経験から言っても、両語とも言わんとする所は真実だと 思います。マタイ10:40で、「あなた方を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と書いてある通りです。では、イエスは、救いの行いを受け入れ ているのでしょうか?恐らく、ここでは、言葉の用い方がまずかったようですが、いずれにせよ、救われる者とそうでない者は、究極のところ、イエスに委ねき るしかありません。

A: この節の内容全体が、個人的に大変気になっています。なぜなら、とても多くの人たちが私の話を感謝 して聞いて、受け取ってくれるながらも、キリストに献身はしないからです。私は決して諦めず、しかし、種を蒔き、水をやり、実を結ぶように聖霊様に祈り続 けます。T さんが来月にバプテスマを受けるという知らせを土曜に聞きました。これは家内と私に大きな力となる知らせです。彼と出会ってから14年になり ます。私と家内の影響が大きかったと彼は言ってくれたのです。大村に来て27年以上になります。その間、沢山の種を蒔いてきました。これからも諦めること なく、キリストの使いとして、キリストのみ手に委ねていきたいと思います。

P: 天のお父様。Tさんのことを本当に有り難うございます。彼の奥さんが、60歳を過ぎた人には滅多に ないことでしょうとおっしゃいました。しかし、主よ、その年齢に達していても、いまだに献身の段階に至っていない友人が多くいます。そして、あなたは彼ら をとても愛しておられます。あなたが語られた人たちの沢山の収穫が今年はありますように。これまで拒んでいても、キリストを救い主、主であると彼らが心に 受け入れますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/01/05

S: ルカ8:18、21 「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。わたしの母、わたしの父、兄弟たちは、神のことばを聞いて行う人たちです。」

O: この二つの節を組み合わせると、非常に明確な内容が伝わって来る感じがします。ヤコブが言うよう に、私達は自分自身を欺くのではなく、聞き、従うことに慎重であるべきです。ただ単に知識を得るために聞くのならば、その知識は全く無意味です。多くの人 は聖書を神学的哲学として取り組みますが、真にイエスの家族になりたいと望む時こそ、み言葉に飢え渇き、知りたいと望むものです。

A: 聖書に長けた知識を持ち、神に献身する両親に育てられた私は恵まれています。それでも、なお、私は 頭の知識だけで十分だと考えるような罠にはまります。ヤコブが、行動に結び付かない信仰は信仰とは言い難い、と言っています。私達は信仰の従順さに気をつ け、あらゆる場所で聖霊様が輝けるように心しておきましょう。それによって、悪魔からの欺きの罠を避けましょう。信者が霊的に“頭でっかち”とならないよ うに、教えを完全にしていきたいと思います。

 
P: 天のお父様。このことに気づかせて下さり感謝します。この教えを聖書の箇所ではっきりと示して下さ り感謝します。あなたのみ言葉を行える者であるよう助けてください。わたしの人生のあらゆる場面で、あなたのみ心が成就しますように。あなたの喜びと御栄 光のために。感謝します。神様を賛美します!

2009/01/04

S: マタイ284~5 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさの余り震えあがり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。」

O: 御使いが恐ろしい存在であることは、疑う余地はありません。神に献身していない人にとって、その恐ろしさはあるのです。しかし、神を求める人への継続的なメッセージとして、「恐れてはいけません。」があり ます。力ある戦士は敵に恐れを与え、守るべき人には自信を与えてくれます。[み使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために遣わ されたのではありません。」とへブル書にはっきり書いてある通りです。(へブル1:14)ですが、み使い自身を礼拝すべきではありません。礼拝を求めるみ 使いは、どんなにみ使いのようであっても、それは悪魔であり、み使いではありません。み使いは、神の子ども一人一人の慰めであり、み使いにではなく、神に 感謝し、賛美させる存在です。

A: 私はみ使いについてあまり考えませんし、あまり教えていません。み使いの存在は知っていますが、あ まり注目はしていません。私は気持ちの全てを神を賛美することに使いたいのです。ニューエージでは、み使いについて教えているようですが、その殆どは悪魔 的です。ですから、私はそうしたことに気をつけ、信者が惑わされないように知識を与えていきたいと考えています。愛に満ちた神の保護と、全ての怖れを遠ざ ける確信を与えてくれるでしょう。

P: 天のお父様。今、私は入院と手術の心配をしています。こうした心配はこれまでになかったことです。 入院が近づくにつれて、思い過ごしと分かりましたが、前立腺がんの心配も出てきました。医学的には大したことではなく、心配が不要だったことを感謝しま す。今回のことからあなたをもっと信頼し、同様の問題を持っている他の人に対し、より安心と励ましをあげることができますように。今日、私自身にではな く、あなたにのに集中できますように。私を通して、あなたのみ言葉が妨げられることなく伝わりますように。あなたのご栄光のために、信者が建て上げられま すように。感謝します。神様を賛美します。

2009/01/03

S: マタイ17:5 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

O: 私達はイエスの語られること以外を、聞いている時があるようです。イエスは聖霊によって私たちに語っておられますが、多くの場合、私達は聞いていないのです。この世のこと、悪魔、自身の欲望や心配で忙しいからです。神様は静かにし、聞くように言われました。それは神様のご計画は、いつも私達の計画より良いからです。私達がどんな状況にあっても、常に脱出の道を備えて下さっています。ただ問題は、私たちが神様を信じ、信頼できないでいることです。

A: 私は、概して自分の冷静さを誇っていますが、今朝の出来事で、実はそれが見せかけだったことに気づ きました。私はもうすぐ入院と手術を控えています。落ち着かないのが、そのことから来る心配だと分かりました。実は、平気な素振りを見せていただけでし た。医学的には単純なことだと知っているので、いくつかの段階の治療は心配していませんが、明らかにある一段階のことが怖いのです。私は自分という人間が 分かってきています。そして、私の知りうるキリストに全てを明け渡すべきでしょう。へブル書にあるように、使徒に辛い時があっても、のちに、義の平安の実 を結ぶのです。

P: 天のお父様。私の別の側面を気づかせて下さって有り難うございます。あなた に完全に明け渡し、すべての段階であなたを信頼することを学べますように。今朝は聖書を読むのにも忙しく慌ただしかったのですが、無事に終えることができ ました。私の書斎にあったゴチャゴチャは、必ずしも書斎においておかずとも済んだものばかりでした。気付かせて下さり感謝します。銀行の通帳が一つ見当た りません。見つけるように助けてください。今日は、やるべきことが他にもあります。あなたから必要な知恵と強さをいただき、ひとつひとつをこなせますよう に。あなたのご栄光のために。感謝します。主を賛えます!

2009/01/02

S: マタイ6:19、21 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

O: 私はここでもまた、英訳にはなかった観点を日本語から得ています。英訳では、「地上に宝をたくわえ てはいけない」と言った意味合いですが、日本語訳では、「地上に宝をたくわえるのはやめなさい」となっています。つまり、この表現は、現在、まさに私たち が宝を地上にたくわえているのを示唆しているかのようです。ペニーやドルなどお金で測れるものであったり、物質的なものであったり、あるいは、名声や力な ど、さまざまですが、大多数の人にとって宝を蓄えるという表現は当を得ていると私は思っています。この教えには誰も否定できないほど自明の理が含まれてい ます。すなわち、心を大切なことに投資することです。神様だけが永遠です。ですから、神様と御国と神の義以外は、愚かな投資なのです。現在の世界経済危機 こそ、まさにこの教訓です。少なくとも、アメリカ中の伝道教会の参加者が増えていることからも分かるように、この教訓からメッセージを学んでいる人もいる ようです。

A: 殆どの人より、私はこの点大丈夫だと思います。それは単に私に預貯金がないからではありません。し かし、最近、私はいくつかのことに祝福を受けました。たとえば私のカメラと新しい(といっても中古ですが)カメラレンズです。私のお気に入りです。物に よって妨げられ、神様から焦点を外すことのないように、優先順位に気をつけていきたいと思います。人はやや中間です。私のために死なれたのと同じく、イエ スは人のためにも死なれたのですから、もちろん人は価値があります。しかし、人が私に良くしてくれたことで価値を置くべきではありません。むしろ、自分を 愛するのと同じほどに、神への怖れをもって人を愛し、できるだけ多くの人を天国に送りたいのです。

P: 天のお父様。また、あなたの私への忍耐を憐みを深く感じます。私がまず為すべきことは、人生を汚れ のないまま過ごすことではありません。あなただけに心から焦点を合わせていられるように助けてください。あなたが私の最高の喜びであり、最大の宝です。ど うぞ、私のあなたへの集中がどんなことにも阻まれませんように。私のプライドや都合のように、つまらないことに労しませんように。むしろ、喜びと感謝を持 ち、あなただけを大切に、あなたの御手から全てをいただけますように。あなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美します。

2009/01/01

S: マタイ5:14、16 あなたがたは、世界の光です。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

O: クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、イエスが世界の光であるという考えができない人は殆どいません。しかし、信者が 世界の光であるという考えに困難を覚えるでしょう。もし、「あなたがたが世界の光です」と言ったのがイエスでなかったなら、とんでもない冒涜の発言でしょ う。私たちは自己イメージに基づいて行動しています。ですから、今日のみ言葉は大変重要なのです。信者が部屋に入ると、イエスも一緒に入ってくるというの は、全く傲慢でも何でもないと聖書は教えています。私達は時々、「イエスがここにいてくださったなら・・」と感じますが、私たちに信仰があるならば、実際 イエス様はそこにおられるのです。自分がキリストの働き手であり、世界でイエスの光を放つ者であると気づくなら、行動や態度にそれが反映し、私たちを見る人は神に栄光を帰すでしょう。

A: これは、私の内で、長い間かけて得て、ますますそう感じている真実です。しかし、十分、私はこの真 実を表現できていません。信者がこの事実を理解し、真実の中を歩いて欲しいと切に望んでいます。しかし、信者にこの負担をかけたくはありません。信者に理 解してもらいたいのですが、それがうまくいかない原因の一つに、私たちが重荷だと捉えていることがあります。イエスのくびきは負いやすく、荷は軽いとイエ スが言ったにも拘らず、です。そうなるように努力はしても、キリストの代表として生きるのではないと教えていきたいと思います。容易な道だと言っているの ではありません。キリストの道が容易でないのと同様です。しかし、自己の力(不可能なことです)でキリストの代表として生きることと、聖霊の流れに(大変な喜びと幸福です)助けてもらうこととは、無限ともいえる違いがあります。信者とともに喜びと力の内を歩けるように、聖霊の知恵を適切に用いて、彼らの理解を助けて行きたいと思います。

P: 天のお父様。新年の初めの今日、このみ言葉を下さり感謝します。この年にこれほど相応しい言葉はあ りません。しかし、あなたのご計画に比して、私はまだ計画さえ不十分です。あなたにリラックスして、委ねることを楽しめますように。それは、決して無責任 な委任ではなく、従順に信頼し、私が、いつでもあなたに服し、あなたのご計画が成就し、御国のための時宜にかないますように。あなたのご栄光のために。感 謝します。ハレルヤ!