2011年1月17日月曜日

2011/01/14

詩篇 27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を慕 い求めます。

この詩篇全体は親しみ深い、心からの愛に包まれた詩節に溢れており、その多くは音楽と共に詠じられます、しかしこの一篇は特に私にとって、長い、長い年月の間特別なものでした。日本語訳版はかすかな訳の違いがある版がありますが、英語版では外の訳は思い当たりません:“My heart says for You, ‘Seek My face.’”と。ダビデが臨終の言葉に話したように(IIサムエル記23章)、彼は神が彼を通して話しているということに気づいていました、そしてここで彼は神を慕い求める彼の心は神ご自身から生まれているものであると理解しているのです。イエスは「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることができません」(ヨハネの福音書6:44)と言いました。神を求めるという熱望は賜物であり、それは軽んじられるものであってはなりません。私は誰もがその熱望を時には感じるものだと思います、そこで真の問題はそれを用いて私達が何をすべきかということです。ダビデはその正しい答えを持っていました:「私はあなたの顔を求めます」と。私達には神の約束があります、すなわち、主が私達の心に灯したその衝動に従うならば、私達は実際に主を、そして主が私たちにと望まれた内なる祝福を見つけるでしょう。(エレミヤ書29:13)

私はかなりの年月の間、神を求めることにあまり熱心ではありませんでした、そしてその姿勢は人間の愚かさを指し示すものです。子供時代でさえ、私には純粋に祝福された、神との親しい交わりがある時期があったにも関わらず、私はその親密な状態に長く留まろうとはしませんでした、そしてかなりの局面において私は主とかけ離れた時期も経験しました。そういうわけで私は神に拠り頼まなくてはならないのです、なぜなら私自身に任されたら、毎回溝にはまってしまうでしょうから!牧師として、私の情熱と責務は他者の中で眠る神を求めたいという欲求を養い育てることであるべきです。私は彼らにそうするように強制することはできません。英語の諺にあるように、「あなたは馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」と同じことです。しかし、私は、そして多くの人々が悪魔の嘘をやり過ごし(その水を)飲むことができるように、その御言葉の生ける命の水を活かし、手に入るようにし、できる限り(他者に)訴えかけるようにすることはできます。ありがたいことに、一度じっくり試してみると、いのちのパンと生ける命の水はかなり習慣性が強いのです!私は信徒たちに日々自分達を食べさせるように教える必要があります、なぜなら週に一度の豪華な夕食だけではわからないからです。私はまた、もし私たちがプライドを捨て全身全霊で神を求めさえすれば、神は本当にキリストを通して近寄りやすい方であるということも彼らが理解するよう助けていかなければなりません。

天のお父様、私はこのことを人々に伝え渡そうとする試みの間で本当に心痛とフラストレーションを感じてきました、しかしそれは私以上にあなたの心が傷ついていることを知っています。私が奉仕する全ての人々にあなたのご栄光を注ぐことをお願いします、そして彼らの目が自らの必要とあなたのお恵みに開かれ、悔い改めと信仰をもってあなたのもとに立ち返れますように。あなたは私と他の人達にこの1年以内にこの教会にたくさんの人々が増し加わるという真の期待を与えてくださいました。私はそうなるように祈ります、そして全体として教会があなたの御国に生まれた一人ひとりに栄養を与えることができるように、そうすることで私達がともに、あなたのご栄光のため、あなたが望まれるような成熟を遂げることができますように。感謝します。神を讃えよ!

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