2009年6月29日月曜日

2009/06/25

第2コリント 1:1-11


S: 第2コリント 1:3-4

私 たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださ います。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人を慰めることができるのです。

O: 私はこの節を沢山、引用してきました。この御言葉は英語よりも日本語の方が伝わりやいようです。「慰められる」という言葉が出てきますが、これは通常、感 情、霊的、あるいは身体的な意味で使われる表現なので複雑です。言語的な観点から見るのは別にしても、神様の摂理を知ることこそ大切です。神様が注いで下 さる祝福を受ける最終的な受益者でではありません。誰かに祝福を伝え渡すまでは、真に神様からの祝福を経験することはないといってよいでしょう。救いにつ いても同じことです。人をキリストへ導いて初めて救いの喜びが新たにされるのです。この世にしても、自己的な人間の性質にしても得ることばかりを教えたが りますが、それは与えられるものに限りがあると信じ込んでいるからです。けれども、神様の恵みと祝福は限りなく与えられるものです。恵みも祝福も際限なく 与えてくださいます。一旦、これが分かったならば、何かにしがみつくことはなく、恵みが私たちを通してあふれ出ることでしょう。その結果は夢に見る以上の ものでしょう。神様にしたがうならば、神様が無駄にされるもの何もありません。苦しみさえもそうです。神様こそが、究極のリサイクルをなさってくださるお 方なのです。

A:  これまでこの説を何度も引用してきましたが、果たして私自身はどのように応用してきたでしょうか。昨日、悲しみにある人から助けを求められたのですが、 話をしている間に真実を持って返答できたことは祝福でした。聖霊様が私を通して働いて下さるよう心を開いていたいと思います。私や私がミニストリーをして いる人々に、必要に応じて与えて下さる神を信頼して行きたいと思います。

P:  お父様。私たちにして下さっていること全てに感謝します。昨夜の祈祷会と、そのあとの話し合いが持てたことを感謝します。あなたは教会全体、そして各自 の必要を御存じです。愛、慰め、励ましに満ち、あなたの愛を流す器となるために、一人一人が心を開きますように。あなたみ心が私たちの内に成就し、栄光が 帰せられますように。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/06/24

第1コリント 15:1-11

S:
第1コリント 15:2 また、もしあなたがたがよく考えないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

O: このみ言葉のギリシャ語版を、今一度調べてみたいと思います。私には聞きなれた御言葉でしっかり意味が通じるのですが、どういうわけか日本語訳は英語訳と は異なっているからです。英訳では、「そうでなければ、あなた方の信仰は虚しいものです。」となっていて、つまり、うまくいかないことを意味しています。 一方、日本語訳では、「もし、あなた方がよく考えないで信じたのでないなら」となっています。私には、納得がいきます。私たちは人の言葉で判断しますが、 それが主観に基づくものだからです。(もっとも、行いの方が断然、言葉に勝るのですが)。それでも、やはり口頭で同意を示すことの方がたやすいのです。よ く考えないで、イエス・キリストの福音を信じた時にも言えることです。人生の荒波にある時。浅い信仰では立ち向かえません!イエスはこのことを教えるため に、種まきのたとえを用いています。固い岩に落ちた種は深く根つくことができません。困難にあって、そうした「信者」はすぐに立ち枯れてしまうのです。

A:  このことを心に覚え、子供のように無心な信仰を持つためにも均衡を保っていたいと思います。子供にバプテスマを授けるべきではないと言う人が大勢いま す。そう主張する人たちは問題をよく捉えていないのです。彼らの論法でいくと、誰も結婚もできないし、子どもを持つこともできないことになります。これか ら起こることを全て知ることは、誰にもできないのですから。結婚と同じように、福音の理解について「よく考え」ることは必要でしょう。終生の献身をするの ですから。困難な時に引き下がるべきではありません。(最近は離婚が安易にされていますが、この問題は私のミニストリーでも難しいことの一つです。)です から、信仰について今一度、考えなおし、新たにするように励ましていきたいと思います。彼らがたやすく悪魔に足元を掬われないでほしいのです。


P:お父様。私にして下さっている全てに感謝します。昨日のことを感謝します。攻撃があり、勝利があり、私たちに必要な恵みが与えられていることを感謝します。今朝、はっきりとした感覚で分かりました。もっとも、全てを分かっていると
は 言い難いのですが。熱心さを新たにして下さり、目的を感じさせて下さり有り難うございます。今朝、これから精神病院にミニストリーに行きます。私が患者さ んたちを解放し、癒す働きができるように助けてください。7月の聖書日課を作りますが、どうぞ、私を導き油を注いでください。聖書日課を読む人たちが適切 な時に、適切な内容の御言葉を取り入れることができますように。看護学校のテスト採点と次のテスト問題作成をしなくてはいけません。どうぞ知恵を与えてく ださい。あなたに感謝し、私の内におられる御霊に感謝し、心から深く意識していられますように。あなたの時宜にかなって目的が成就しますように。あなたの ご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/06/23

ローマ 15:14-21

S: ローマ 15:14
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒しあうことができることを、この私は確信しています。

O: 全ての牧師、教会リーダーは、神様が群れのためになさったことに信頼しなくてはいけません。さもなくば、リーダーは不安と間違いに苛まれ、教会成長は望め なくなります。これは、リーダーが群れを率いるのを怠って良いという意味ではなく、最終的には人間に力だけではできないことを知ってほしいのです。信者が 正しい行動をとっていないと思われ、信頼されないならば、確信を持てず、結局はリーダーに全てを任せてしまうことになります。言葉においても、手本を示す ことにおいても、確固としているべきです。それには勿論、御言葉を読む訓練、聞くこと、そして聖霊様に従うことも含まれます。パウロは信者同士で互いに諌 めるべきだと教えていますが、興味深いことです。今日の教会は諌めることを殆どしません。しかし、それでは地方の教会はまとまりがなくなるか、クリスチャ ンとは名ばかりの存在になってしまいます。

A: 私はこの点でかなり苦労を強いられています。日本社会は一世紀のギリシャ、ローマ社会のようであり、だからと言って私が言い訳をしてはいけないでしょう。 上に書いたように、言葉と行いにおいて勤勉に教えていきたいと思います。しかし、教会全体を私一人で担うのはできません。人々を訓練し、彼らが問題を託 し、信頼するように指導したいと考えています。現実的にも、論理的にも、キリストが教会のかしらであることを心に留めておくべきです。ですから、教会はキ リストが聖霊様によって働き、建て上げて下さることでしょう。

P:  お父様。私と家内が経験したより、もっと明るさまに拒絶、締め出しをされています。この問題を明白に示して下さり感謝します。あなたは問題をそのままに して置かれないお方ですから感謝します。私達がこの問題、一つ一つの問題に対処できるように助けてください。あなた御霊に心から従い、愛を持って行えます ように。私達が、愛と恵みのご性質であるキリストの体となれますように。「主の愛が、今、触れ、あなたを包む」という歌のようになりますように。一人で荷 を負うことなく、勤勉であるように助けてください。この教会に持っておられるあなたのご計画と目的が、時宜にかなって成就しますように。あなたのご栄光の ために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/06/22

ローマ 12:1-8

S: ローマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

O:  もう何度も教えてきた聖句で大変有名な章です。今更、デボーションで引用するのも、くどいかとは思ったほどです。しかし、当たり前のように思わせるほ ど、悪魔が巧みに用いることでもあります。気をつけていましょう。私は英語の語順に慣れきっていますので、日本語で読むと、再認識し新鮮に感じます。前半 の文は同じで、大変重要な箇所でもあります。さて、最近の心理学実験でも明らかなように、私たちは周囲に合わせようとしがちです。実験の結果は、周囲の意 見によって目標の見方が変わっていくという驚くべきものでした。真実は実に単純です。私たちにはできないのです。ですから、神の真実の基準に立ち、人に迎 合するために私たちは見方を変えなくとも良いのです。絶対的な真実はないと主張する相対主義の人は激怒するでしょう。多くのアメリカ人がそうした見方をし ています。これほど危険な考え、これほど誤った見方はありません。後半の文は、日英で若干、意味が異なっているようです。NIVでは「変えられる」が、日 本語訳では「自身を変える」となっています。私たちは積極的に神を求める責任があります。ただ事が起こるのをじっと待っているのはよくありません。

A:  この二つは牧師にとって常に悩まされるところです。しかし、私は決して諦めたり屈したりしません。私自身もこの世に調子を合わせているのでしょうか!御 言葉の真実にしっかり立つように信者を励まし続けたいと思います。「みんながやっているから」と彼らが言うなら真実に照らし合わせ、大衆に合わせないよう にしていきます。また、信者が積極的に神を求めるよう励まし、常に神を第一義におき、心と思いとスケジュールを神優先するように教えたいのです。もっと も、この最後のスケジュールが一番難しいことではありますが。

P:  お父様。この節を表すために私が良い手本となるように助けてください。不可能はないことを信者に分かってもらいたいのです。悪魔や世間は、聖書は良さそ うだが、実現不可能だと思わせ惑わします。Fさんのご家族に関わることができ、感銘を与えることができたことを感謝します。昨日、早朝Mさん亡くなり、私 はひどく驚いています。葬儀の日時を明確にして下り有り難うございます。ご家族に対し、あなたの代表として働き続けることができます。彼女の信仰は、まだ 未熟ではありましたが、彼女のお母さんの心が動いたことを感謝します。お母さんが、このままあなたに導びかれ受け入れますように。Mさんの救いと、ひいて はご家族の方の救いとなるよう祈ります。あなたのご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009年6月24日水曜日

2009/06/21

ローマ 11:1-21

S: ローマ 11:5-6
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行いによってではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

O:この節は聖書を通してのテー マである恵みについて、はっきりと述べています。人は自分で達成したことを自慢し、誇りたがりますが、パウロがあとで教えているように、それは愚かなこと です。行いによって救われたと主張し始めた途端に救いから外れてしまいます。神様が人を救われるのは、愛に満ちた方だからです。もし私達が行いによる救い を誇るなら、それは完全にポイントを外れています。ここで、日本文化に見られる面白いパラドックスをお話ししましょう。日本では自慢することは不適切で無 礼なことだと考えられています。それでいて、誰でも努力することを求められています。外国人が最初に学ぶ日本語は、「がんばる」です。つまり、何かにしが みついて最善を尽くせということです。クリスチャンの見方をすれば、努力や最善の問題ではありません。そうした行為で神に近づく必要はないのです。ただ、 あるのは信仰による恵みだけです。日本人の観点からすると、福音の大きな「スキャンダル」とも言えることかもしれません。自分で得たのではなく、全ては神 様に帰しましょう。

A:  文化的な壁を取り払い、福音を伝えたいと思っています。恵みの福音を広め、受け入れていくれる人のために祈ります。人に強制して信じさせるならば、それ はもはや恵みではありません。聖霊様によって気づかされるのです。私にできることは、ですから、聖霊様に助けていただき、用いていただくことです。できる だけ働くことです。神様が私のためにしてくださったことに、アンテナを張り、応答していくことです。神様がご用意さなさった人に御言葉を告げていくことで す。今日は素晴らしい機会を与えられた日です。洗礼を心している人がいる中で、二人の洗礼があるからです。それでも、なお私にできることはと言えば、ただ 謙虚であり、用いられ、期待していることです。

P:  お父様。今日のあなたのご計画全てを感謝します。多少の問題もあります。狭い場所で沢山のことをやります。ここで、全てをやるのですから大変です。入院 中のMさんは危篤状態です。私にはどうする力もありません!不安やストレスに押しつぶされることなく、全てをあなたに委ねることができますように。手離し て、あなたに委ね、聖霊様に頼ることでしょう。Mさんのために祈ります。あなたの恵みとあわれみを彼女とご家族に与えてください。あなたの愛、力、恵みを 伝える証し人になれますように。どうぞ彼女の完全な癒しを祈ります。今朝、これからバプテスマを受ける二人のために祈ります。あなたの命になって二人が真 に生まれ変わりますように。教会で、バプテスマを心している人のためにも祈ります。SさんとHさんが勇気を出して献身できますように。そしてあなたからの 完全な救いを得ますように。お父様。今日、あなたのみ心が完全に成就しますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/06/20

ローマ 6:15-23

S: ローマ 6:16
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷であって死に至り、あるいは従順の奴隷であって義に至るのです。

O: 自分の生き方を持っている人には分からないようですが、「全てを欲する」人には、神様からの律法を全く無視しています。天においても神に従わず、大切にし ていません。この節に書かれている明白で単純なことに彼らは気がついていないのです。しばしば、私が教えていることですが、地獄は人を送るために造られた 場所ではなく、サタンとサタンに従う天使たちを閉じ込める所でした。しかし、それでも結局のところ、人はその悪に従っています。好んで、悪魔に従う人はあ まりいないでしょう。しかし、神に従わないことを選択するのは、結局、悪魔に従うことを選んでいるのです。最近の、地獄を強調しない教えは、これもまた確 かに悪魔の仕業です。悪魔が人の目をくらませて、向かっている先を見えなくさせているからです。漫画では、悪魔が人を苦しめているシーンがありますが、実 は人よりもさらに悪魔の方が苦しめられているのです。

A:  私は個人的に、人を怖がらせることは避けたいので、地獄についてはあまり説教で語りませんが、それは、どうやら間違いのようです。救いを「地獄から抜け 出すための切り札」として教えるべきではありませんが、神に従わないことを選んだ結果を、砂糖でくるんだような甘言でごまかしたくはありません。神に従わ ない人々の目を開化させるために私は働きたいのです。多元主義はアメリカで広まっていますが、日本では何世紀かかっても広まっていません。人が何を信じて いようと構わないからです。つまり、彼らの考え方はこうです。「富士山の頂上に登るのにいくつかの登山道があるが、結局同じ頂上にたどりつく」という見方 です。私はここではっきりと言いたいのです。イエスが御父に至る唯一の道だとはっきりイエスも言っていることを。世間にあるエリート主義などは愚かなこと です。私は少しも屈しません。癌で死にかけた人に頭痛薬をやる人などいないでしょう!日本では古くから、重い病気の人に病状を教えません。それは、永遠の 命に対する真の希望を持っていないことから来ています。私に託された使命は希望を分かち合うこと、キリストにある命を確信させることです。そして人々が変 えられ、悪魔から死へと向かうのではなく、キリストから命へと向かってほしいのです。

P:  お父様。力強いメッセージを感謝します。いつ、どこで、どのように教えていくべきかを示して下さい。トラクトを作るべきであるのなら、どうぞ導いて下さ い。そして人々に手渡す状況も示して下さい。これは生死に関わる大切なことです。私が思っている以上に、あなたは人々に命を与えたがっておいでです。文化 の壁を取り除いて下さい。私がそうした壁を克服できるように助けてください。福音が人々の心に行き渡り救いへと導かれますように。有り難うございます。ハ レルヤ!

2009年6月22日月曜日

2009/06/19

ローマ 6:1-14

S: ローマ 6:14
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

O: クリスチャン生活において非常に大切なことがこの節全体に書かれています。悪魔が邪魔をして、私達がみ言葉を理解できないように曇らせていますが、 このみ言葉を理解し、心にとめるならば、もはや容易に罪に支配され、つまづくことはないでしょう。ヨハネのからの引用ですが(1ヨハネ3:14)「死から 命に移った」のです。より正確に言うなら、私たちは罪のためにすでに死んだのです。ゾンビ映画が最近は流行っているようですが、ある意味では古い私たちは ゾンビのようなものです。そこには真の命はありません。ただ、あたかも生きているかのように潜んでいるだけです。そうした馬鹿げたことをやめるには、神様 の恵みがすでになされたことを知ることです。そして、律法によるのではなく、恵みによって生きることです。赦されていること、清められていることを知るこ とは、罪に対抗するための大きな励みです。罪が何なのか、そして罪を避けることを理解し、罪にではなく、ただ神にのみ焦点を合わせましょう。この節はそう 教えているのです。

A:  私は本当に赦されているですが、大変な反抗を経験したことがあります。言葉と文化が、混乱を生みだしていることが大きな問題として挙げられるでしょう。 つまり、日本では、赦しについての理解がなく、それが福音の大きな妨げになっているのです。同じ音でありながら、聖書の赦しと一般的に用いられている許し とでは意味が異なります。殆どの人は聖書的赦しになじみがありません。ですから、彼らが「許し」のように受けとめるのも無理はありません。彼らは赦しを許 しと聞いてしまうのですから、赦しの概念すら持っていませせん。?許されないことは分からなくはないのでしょうが、赦しについては分かっていません。私が 漢字を作り直すことはできませんが、言葉、行動、態度によって、神様の恵みを分かち合い続けることならできます。そして私を通して聖霊が働き人々に赦しを 示したいのです。


P:  お父様。この問題にはうんざりしています。どうか助けてください。あなたに委ね、恵みから外れることがありませんように。日本語の「恵み」は英語やギリ シャ語と意味合いが違っています。私たちに値する以上のものであること、祝福以上であることを伝えることができますように。値する以上を下さり感謝しま す。言語解釈を超えて、この教会が確固として、恵みと赦しに満ちたものとなるように助けてください。理解し、その理解を人に伝えられますように。彼らの解 放と救いとあなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/06/18

ローマ 5:12-21

S: ローマ 5:20
しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

O:  パウロが記録する以前に、この言葉の背景は歪曲され、不正確に記録されており、そのことにパウロ自身が6章1節でふれています。福音の中心となる真実と は、私たちの罪であり、不従順、反抗です。しかし、それにも増し加え、神様からの大きな恵みがあります。この事実を悪魔は隠し包み、欺きます。この事実が 悪魔を無力にする武具だからです。多くの人は鎖につながれ弱くなっています。それは彼らが自分自身を赦せず、神様の赦しも分からないでいるからです。たと え、どんな罪であろうとも、キリストの十字架野贖いは十分であると福音は伝えています。悪魔はその事実を歪曲します。パウロは、次の章で、長々とその反撃 をしていますが、ローマ1:5にあるように、真の信仰は神に従うことです。信仰を通した恵みによって救いがあるのです。有名なエペソ2:8~9では、救い の信仰によって神に従うのですから恵みを軽んじてはいけないと教えています。

A: 恵みを罪の口実にしたがる人よりも、自分自身を赦せずに鎖につながれている人と多く接してきました。そのどちらの方々とも接するための知恵を神様に求めま す。精神病院に入院しているMTさんは自分の母親を殺したと思いこんでいます。けれども、彼女は神様の愛を知ることで、自由に開放されつつあります。怒 り、赦さない心を彼女に教えています。母親を赦す思いによって、彼女は真の解放があるのですから。自分自身に対し、あるいは自分以外の人に対し、赦さない 心を持っているために、解放されないでいる人を私は日頃から多く見ています。この問題は広く多くの人が持っており、私自身で解決できません。一人ひとりの 問題に対し、神様の知恵と取り計らいを求めます。

P:  お父様。言語療法クラスの1年生に赦しについて語れたことを感謝します。自由に語れたこと、これは学校が私立だからできたことです。有り難うございま す。学校で、私があなたの代表として、はっきりと大胆でありますように。発言と行動において、福音を明確に、十分に伝えるように助けてください。多くの人 を悔い改めと信仰に導けますように。救いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/06/17

ローマ 5:1-11

S: ローマ 5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

O: 私はこれまで数え切れないほどに、この節を教えてきましたが、この節に新たな啓 示を与えられました!神様と御言葉は驚くほど真実に満ちています!神様に失望する人がいます。彼らは聖霊様によって、神様の愛を受けていないのが理由だと 私は示されました。知性、文化的な意味で福音を理解しているので、自分ではクリスチャンだと思っているかもしれませんが、彼らは悔い改めをしておらず、神 様の御前に砕かれることをしていません。プライドが聖霊様の介入を拒むのです。つまり、神様からの愛さえも受け入れない殻なのです。その殻を破るためには 悔い改めが必要です。そして、聖霊様によって神様の愛を注いでいただきましょう。最近、私は多くの偽のクリスチャンのことを知りました。ですから、この問 題を避ける手だてができるかもしれません。御国に入るには幼子のようにあれ、というイエスの教えを当てはめましょう。幼子はプライドの殻をまだ持っていな いからです。

A: Mさん、Aさんと話す時は、この啓示をすぐにでも実行していきたいと思います。経験したことのない 人にとっては、悔い改めは大変怖いことです。けれども、全ての人が愛に飢えているのも真実です。悔い改めを通してプライドの殻を破らなければ、神様の愛は いただけないことを明確にしていきたいと思います。プライドを失くせば失くすほどに、ますます多くの愛を受けられます!何人かの人が、Sさんは救いに近い と言っています。今度の日曜も彼は来ることでしょう。時間を作って彼と話し、真実を分かち合いたいと思います。一線を越えて御国に導きたいのです。これこ そ、大収穫になる始まりとなるかもしれません。
P:お父様。あなたの愛と恵みを感謝します!昨夜、私のパソコンの問題解決を与えてく ださり、とても嬉しく思っています。けれども、そんなことより、今日の御言葉で知った事実の方がはるかに素晴らしいものです!福音を伝えるのに、あまりに も多くの障壁があります。そして、なお人々は愛に飢え渇いているのです。悔い改めこそが圧倒されんほどの愛をいただくためのカギであることを分かち合えま すように。主よ、あなたは私たちを愛して下さっています。それなのに、私達が頑なに愛を拒んでいるのです。私が「殻破り」の人となるよう助けてください。 そして、ますます多くの人が心を開き、救われますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/06/16

ローマ 4:16-25

S: ローマ 4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

O: 私たちは、この短い節に書いてある二つの大切なことに困難を覚えます。まず、一つ目はアブラハムの、神に対する信仰への強い確信です。これがこの節全体 で、大きな推進力となっていて、アブラハムが私たち全ての良き模範とされる所以です。けれども、私たちは神様から単純な約束を分からないでいます。アブラ ハムには神が直接、語って下さったのですが、私たちは聖書を通して理解できます。聖書を読んで行くと、神様が語っておられるのがよく分かりますが、本当に 私たちに向けて語っておられるのかどうか、疑問に思う時がありますが、特に前後の文脈を無視し、聖書の約束を一部だけ、取り上げる傾向がある時などは、信 仰が危うくなります。そうなると、神様の約束の成就も危うくなります。ですから、文脈に添って神様からの約束を理解し、聖霊に神様からの私たちの心への語 りかけを確信してもらいましょう。そして、従順に献身していきましょう。そうすることで、成就のための時間枠など問題ではなくなるでしょう。アブラハム は、その意味で最高の手本です。神様の約束の成就は、人間的に言えば不可能でした。私たちは神に信頼するよりも科学を信頼しがちです。神を愛する人に神が どれほど多くの「不可能」をなさったかをすっかり忘れているのです。

A: 私はアブラハムのような信仰を求められています。アブラハムの信仰の域に達 しているかどうかは分かりませんが。ハバクク2:2~3のみ言葉を、もう覚えていないほどに示されました。日本で、この大村を再び最大のクリスチャン都市 にするというビジョンを人間の力で成し遂げるのは不可能です。私と教会への約束がいつ成就するのか聞くことは憚られますが、恵みによって成就することを信 頼します。アブラハムのように、18節が教えるように、私も望みえない時に望みを抱いていたいと思います。私自身の力では成し遂げられません。しかしパウ ロが言うように、私を強めるお方によって全てができるのです。

P:  お父様。あなたの恵みを感謝します。約束と召しを感謝します。信仰と従順で、私を強め鍛錬して下さり感謝します。たじろぐことなく、あなたのみ心をしっ かりと行うよう助けてください。すぐに、些細なことで気が散ってしまうのです。信者を指導しながらも、目の前の状況や自分自身から目を離し、あなただけに 焦点を合わせているように助けてください。み心である信頼と喜びと平安の中を歩めますように。あなたのみ心を時宜にかなって行えますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009年6月19日金曜日

2009/06/15

ローマ 4:1-8

ローマ 4:5 何の働きのない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 

O:  不義が信仰によって義と認められるというのですから、私たちの正義感に反します。キリスト教のスキャンダルです。しかし、私達がどれほど不義であったか を知って、ようやく感謝することができるのです。昨日の聖書日課ではっきり分かったことですが、真の信仰とは従うことであり、癲癇の子の父親が「主よ、信 じます。不信仰な私をお助け下さい。」(マルコ9:24)と叫んだように、信頼することが大切です。頼ってくる子どもを失望させる親などいないでしょう。 偏在な神が私たちを失望させることはありません。ですが、私達が神様に何を行うかにではなく、神様に信頼をおくべきです。神様の聖さを知れば知るほど、罪 がどれほど蔑まれるべきかを知るでしょう。そして、信仰によって正しさをますます求めていき、神はキリストにある義を備えてくださいます。

A:  私は、この領域で実地訓練を受けているところです。行動が重要なのでは全くありません。神様がひとり子を私たちの罪と愚かさのための贖いに備えてくだ さった行いが大切なのです。その贖いこそが何よりも大きく、力強いのです。人がすでに律法を犯していることを分かってもらうために、私は法を教えます。そ れは、人間の失敗をはるかに超えた神様の恵みを教えたいからです。多くの人が自分自身を許せずに苦しんでいます。ですから、十字架によって神様からの赦し はすでに頂いていることを受け入れるよう示したいのです。しばしば、実際に犯した罪より、むしろ生来持っている罪に根ざした、あるいはそうでないかもしれ ないが、そういった罪に苦しんでいます。神様は御栄光のために、人間の失敗さえも恵みにして下さることを人々に分かってもらえるように私は助けたいので す。たいせつなことは神様に委ねることです。

P: お父様。教えていくために真実の中を歩くよう助けてください。いつも、あなたの聖さを恵みの中を歩けますように。恵みと愛を周囲の方々に広めていけますように。信仰に従い、それを示せますように。あなたを十分信頼し、従いますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

2009/06/14

ローマ 1:1-7

S: ローマ 1:5
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の努めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。

O: 神様は、そのご性質の故に,先ず何よりも、恵みに満ちたお方です。私たち一人ひとりにご計画を持っておられるが故の恵みであり、人類全てを救うというご計 画です。これを、私の祖父のW.O.Carverは、パウロの書物の研究から「長きにわたるご計画」と呼びました。パウロは弟子としてキリストの体となる ように恵みを受けました。誰もが、こうした特別な召しを受けるのではありませんが、召しに対する彼の表現は私たちに感慨深さを与えてくれます。パウロは自 分の仕事とは人々を信仰に従わせることだと語りました。救いは信仰を通した恵みによってなされますが、救いの信仰は神に従順であることです。イエスに従わ ず、口先だけで主と呼ぶのは無意味だとイエスは言っています。心から神に献身し、従わないのに、クリスチャンと呼ばれる人が多くいます。彼らの国は「クリ スチャン」国家と呼ばれていますが、痛みを伴っていません。つまり、彼らは国が自由を謳った時点で、ただ口先で述べているにすぎません。追従です。彼らの 「信仰」は救いの信仰ではありません。従順を生み出すものではないからです。上に述べたように、救いは信仰を通した恵みによるもので、神に従うことを意味 するものであるべきです。

A:  私は自身の信仰レベルするために従順さの表示しておくべきでしょう。神に信頼すれば信頼するほど、ますます従順になっていきます。同時に、福音を明確に 正確に教えるよう慎重であるべきです。一部の人が言うような、「生半可な恵み」であってはいけません。律法主義であってもよくありませんが、クリスチャン であることで犠牲が全くないわけではないことも教えないわけにはいかないでしょう。悔い改めはまさに大きな問題です。イエスは人々に信じてから悔い改める よう教えてはいません。そうではなく、悔い改めてから信じるように教えています(マルコ1:15)。しかし、苦行者のように、失敗のために鞭打ったり、人 にそうすることを教えてはいけません。神様の恵みは謎です。ですから、私を通して、そして私の中で、神様に示していただくよう求め、喜んでいたいのです。

P: お父様。悔い改め、信仰、従順、恵みを教える時は、決まって困難に陥ってしまいます。どうか、私の霊と魂に示して下さい。そして、他の方にはっきりと教え ることができますように。昨日観たDVDのように、私は真実に対して誇張表現してしまいます。ただ不要な物と一緒に大切なものまで、失くしたくはないだけ です。今日も、明日も毎日、信仰に従い、あなたの恵みの中を歩めますように。感謝します。神様を賛美します。

2009年6月15日月曜日

2009/06/13

使徒 20:17-32

S: 使徒 20:32
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

O:  人間の指導者が、率いる人たちから離れてしまうときがありますが、それはとても大切なことです。後継者なくしての成功はありえない、とKevin Conner は強調していますが、パウロのような場合は、引く継ぐ仕事が大き過ぎて一人では担えないことがあります。だからこそ、人は聖書に基礎を置くようにすること が大切なのです。日本語での今日の御言葉はNIV版より、はっきりと、恵みのみ言葉で育成すると述べています。日本語の「育成」は、「教育」や「育児」に 近い意味を含んでいますが、何と適切な表現なのでしょう!新訳聖書では旧約聖書の律法は私たちをキリストに導くための養育係だと書いてあります(ガラテヤ 3:24)が、新約聖書を持っている私たちは、旧約聖書を基礎としたもっと十分な啓示を持ちましょう。そして、必要を与えてくれることを確信して聖書を手 にしていきましょう。

A: 人に聖書を読んでもらうよう勧めることが、私には負わされています。み言葉を飲み、吸収し、実行するためです。決して終わることのない作業です。私自身も 終わることのない求めを持っていますので、聖書を人に読むよう勧めるのは適切なことでしょう。J君が気になることを言いました。Tさんが彼に忙しすぎてデ ヴォーションをする時間がなくても、聖書のみ言葉を心に蓄えているから大丈夫だと言ったそうです。Tさんは、今のところ、私からの直接的な影響を受けてい ませんが、私が関わっている人には全て日々、聖書を読むようにはっきりと示したいと思います。聖書を通して神様が私たちの何を語り、どう適用すべきか学ん でほしいのです。聖書日課からの「卒業」はないことを分かってもらいたいと思います!豊かなみ言葉が朽ちることはありませんし、その豊かさの恩恵に浴しな いことは何と愚かなことでしょうか。

P:  お父様。明日のためのメッセージを与えて下さり感謝します。まさにぴったりのテーマです。ステーキや固いビーフジャーキーからさえも、甘い肉汁がが出る ように。あなたのみ言葉を、心に蓄えていくことの大切さと喜びとを信者が分かるように聖霊様に祈ります。教会にきて、口に入れてもらったり、デボーション の冊子からではなく、彼らが自ら御言葉を食べていくように助けてください。あなたが彼らに与えて下さってることは彼らの想像をはるかに超えた素晴らしいも のです。どうぞ彼らが心を開くよう助けてください。感謝します。神様を賛美します!

2009/06/12

使徒 18:24-28

S: 使徒 18:27 彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

O:  ドン・フォーチュンとケーティー・フォーチュン夫妻は、教師として優れた賜物を持つ聖書的模範としてアポロを挙げていますが、私にはその理由がよく理 解できます。アポロが現代、生きていたらきっとコンピューターに熱中してたことでしょう!キリストの体としての各自に与えられた賜物は、それぞれ異なった 働きを持っています。そして、その賜物を持ちいるときこそ、各信者は最も生産的で満足のいく働きができるのです。アポロは伝道者ではなく、教師であり、知 的な理由でキリスト教に反対する人たちにミニストリーを行いました。さらに、すでに信者になっている人たちにもミニストリーを施しています。恐らく彼は、 多くの人を新しく改心させることはできなかったでしょうが、彼の賜物によって、この節に書かれているように、「大いに助けた」のです。実際、後で党派心を 持ったコリント人をパウロは叱っていますが、そのうちに一つのグループはアポロに従ったと主張しています。私は、これはアポロのせいだとは思いませんが、 神に用いられ、力強く賜物を発揮する時は誰でも、栄光が自分にではなく、神にあるように気をつけるべきです。

A:  フォーチュン夫妻が、私は彼らが個人的に知っている中でも、教師として最も純粋な手本だと話してくれました。私はアポロのミニストリーを模範としてよく 見てみたいと思います。ノンクリスチャン文化の中にあって、私は、アポロのように、すでに信者となっている人に教える時が好きです。プリスキラとアクラが 聖霊と彼についてもっと良く教えるために大胆に話したように、私も心を開き、神の真実を深く理解していたいと思います。人が私にではなく、キリストに、し かっり近づくことを望んでいます。今、私に沢山の人が温かく接してくれますが、まだキリストに従ってはいません。彼らをキリストに献身するよう助けたいと 思います。私は神のご計画の中にあっては、ほんの小さな歯車にすぎないことを承知していますが、他の信者と共に喜び、神様のご計画がご栄光のために成就す るために働きます。

P: お父様、あなたからの恵みを感謝します。フォーチュン夫妻と彼らが信仰により、あなたのことを教え、分かち合っていること、彼らから霊的に学びことから得 る解放を感謝します。夫妻は高齢です。どうぞ、彼らに恵みと祝福を与え、年齢からくる困難を取り扱って下さい。あなたが夫妻に与えたことがキリストの体と して建て上げられるための祝福となれます
ように。夫妻がそのことを確信し、知 恵を持って、大きな平安と喜びを得ますように。私も、同じように、あなたが置いたこの地で、良き僕となるよう助けてください。どの地においても、どのよう な方法であっても、あなたのみ心がなされますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009年6月12日金曜日

2009/06/11

使徒 15:1-11

S: 使徒 15:11
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

O:  この節は新約聖書全体の中でも、劇的で最も要となる瞬間の一つです。神のこうした瞬間の記録は人に、あるいは人を通してなされていますが、この節は人が 神にどのように応答したかが記録されています。もし、この場面が違っていたならば、世界中の教会歴史は悪い方向に大きく変わっていたことでしょう。ヤコブ は私たちに勇気と大胆さを求めていますが、ペテロは悪魔に対抗するために勇気と大胆さを与えられました。悪魔が信者を持ちいて教会を破壊しようとした時の ことです。未信者よりも、信者に接する方が勇気がいる時があります!もっとも、努力するだけの価値はありますが。行いではなく、信仰による恵みで私達が救 われたことを忘れないでいましょう。ですから誇ったり、自慢してはいけません。恵みを失ってしまいます。今日、恵みから堕ちることはひどい罪を犯した人を 指していますが、新約聖書のイメージする所は正反対です。自分の努力により、自分は十分良いと思うならば、もう恵みからこぼれています。神様からの恵みな しに誰も救いの望みがないことを心と思いにしっかりと刻んでいるべきでしょう。

A:  律法主義と裁きは今だに教会に、はびこっていますが、私は別の側面からの問題を知っています。人は私を見て、「私はどんなに頑張ってもそんなに良くなれ ない。」と言います。つまり、自らがクリスチャンになる資格がないと思いの上で制限をかけているのです。罪から遠ざかっているべきですが、他の人と同様 に、私には神様からの恵みが必要であることを分かってもらうようにしたいのです。さらに、イエス・キリストの基準をしっかり保ち、恵みで罪の言い訳をしな いようにしたいものです。問題の一つは、人々が悔い改めの必要性と神と恵みを殆ど分かっていないことにあります。悔い改めとは以前の生き方を変えることで す。ですから、御言葉と御霊によって私たちの思いを日々新しくしていくべきです。律法的な考えに留まるのはやめましょう。

P:  お父様。この領域で私は成長すべき点が多いにあります。あなたの恵みを、もっと深く、強く分かるように助けてください。そして恵みを他の方に、もっとう まく伝えることができますように。Mさんのために特に祈ります。彼女を特別に計らって下さい。昨日、彼女が苦しんでいるのを見て以来、ずっと彼女のことを 考えています。今日、私は彼女を見舞いますが、Mさんの霊と体にあなたの油注ぎが力強く働くよう祈ります。肺炎と白血病がいやされ、肉体的、霊的に回復 し、彼女を知る人、病院スタッフが力強い証し人となりますように。さらに、彼女があなたの力強い証し人となり続け、多くの人の救いにつながりますように。 あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/06/10

使徒 14:21-28

S: 使徒 12:22
弟子たちの心を強め、この信仰にしっかるとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。


O:  これは西洋の教会では、あまり耳にしない説教です。中国やイランでなら聞くことは想像できます。私たちは良い状態にある時は信仰が弱くなり、デボーショ ンもおろそかになりがちです。アメリカの状態をは今、急速に変化しているようで、クリスチャンにとっては犠牲を払うほどの変化です。それは恐らく良いこと なのでしょう。ただ免許を持っているだけの人を指して、日本人がよく使う「ペーパードライバー」と同じように、アメリカでは「ペーパークリスチャン」が多 いからです。多くの教会で目にするものが何であれ、キリスト教は決して「スポーツ観戦」ではありません。ここで、犠牲を払わない物は神に捧げない、と言っ たダビデの言葉を思い出します。何も現金やクレジットカードのことを言っているのではありませんが、私たちはキリストに従うためなら進んで犠牲を払うべき です。真に献身することは不便を生じ、しばしば誤解と孤独を経験します。ここ日本では、クリスチャンであることで職を失う危険はありませんが、日曜礼拝出 席を守ろうとすることで職を失うことならあるかもしれません。「先進国」の中には、聖書の原理を破ることになるからと言う理由で、仕事全体を停止すること があります。そうした国の店主らは商売よりも信仰を選択しています。彼らこそ報われることでしょう!


A:  世界中での出来事を読むと、まさに今、最後の時のように思えてきます。新約聖書では最後の時に備えて真実であることが数か所、書かれていますが、私もそ のカテゴリーの中に入っていたいと思います。昨日も書いたことですが、私はこれまであまり多くの犠牲を伴ってきていないように感じます。もちろん、苦しみ を好んで求めているわけではありませんが、逃げていても良くありません。神は私の避け所であり力なのです。神からの恵みは私には十分です。ですから、誤解 されたとか、ひどい対応を受けたなどで不平をこぼしたくはありません。キリストは私のために、私以上に艱難を通られたのですから。パウロがしたように、福 音を誠実に示すよう注意深くあるべきです。人々に、辛いことがあるとすぐに逃げ出すクリスチャンになってほしくないからです。ただ、時に物理的状況からそ うではなくとも、神と交わることは実に素晴らしいことです。私は信者が単に物質的にではなく、キリストにある喜びと満足を見つけるよう努めていきます。


P:  お父様。私たちに必要な恵みを溢れんほどに下さり感謝します。私が恵みの中を十分に歩き、この群れが恵みの中を歩めるように指導できますように。どんな 状況であろうとも、あなたの愛と喜びを現わせますように。周りの方々が全く純粋な動機でキリストに導かれますように。彼らの救いとあなたのご栄光のため に。感謝します。ハレルヤ!

2009年6月10日水曜日

2009/06/09

使徒 14:1-7

S: 使徒 14:2-3
しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざをを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。

O:  この節にはいくつかの興味深い点があります。先ず、真に福音を伝えようとする者なら予想していることですが、反対があります。イエスも弟子達にある程 度、反対に対して注意を促しています。第二に、そうした反対に遭ってもパウロとバルナバは全く思い留まらなかったことです。日本語の、「それでも」は彼ら の滞在を長引かせたかのように聞こえます。多くのクリスチャンは、抵抗に遭うとすぐに伝道を諦めてしまいます。もう、それは直ちにと言ってもよいくらい、 すぐにです。しかし、それは聖書的な態度ではありません!三番目は、神様は彼らの献身を大切に思い、み力によって彼らの語ったことを確認したことです。私 はルカがここで使った「み恵みのことば」の表現が気に入っています。福音は実に始めから終わりまで恵みに満ちています。けれども、私達がそれに値すると 思った途端、益を失ってしまいます。素晴らしいしるしを行ったのはパウロでもバルナバでもないことを、ルカははっきりと述べていますが、彼らの手を用いて 主がなさったのです。神はご自分の御言葉を顧みられますが、自分たちや状況から目を離した時、私たちはその道具として用いて下さるのいです。

A:  しばしば言っていることですが、私は自身から目を外らし、イエスのみに焦点を合わせるように努めなくてはなりません。私はパウロほどひどい反対を受けた ことはありませんが、何回か同様の反対は経験しています。そうした反対に屈することなく福音を広めたいと思います。エペソ(1コリント16:9)で書いて いますが、良い機会が反対が伴うことが多く、私は反対でくじけたりしません。むしろ、悪魔を傷めるために励まされるくらいです。体が鍛えられるように抵抗 もまた、弱い私たちを強める訓練なのです。

P:  お父様。へブル12:4を私自身に応用すべきだと痛感しています。戦いにおいて私はあまり犠牲となっていないからです。あなたの御言葉が多くの日本人の 心に沁み入るように、私が進んでどんなこともやれるように助けてください。彼らの鎖を立ち切り、解放し、あなたの光と命のうちを歩めますように。あなたの ご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/06/08

使徒 13:38-52

S: 使徒 13:45
しかし、この群集を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。

O: ねたみは時に驚くほどです。祝福を多く受けている人と共にいる厄介なことが あります。それが、宗教的な集まりだとなおさら顕著です。過激な宗教戦争は実は、単に神学論争以上に妬みが根底にあります。妬みに関する全体的な問題は、 神様に対して少しの理解しかしていないことに起因します。最初の殺人はアベルを神が受け入れたことに嫉妬したアベルが犯しました。その状況は、まさにこの 節そのものです。もしユダヤ人たちが、「神はこの民に何をしたのか。私たちも同じことを望んでいる。」と言ったのなら、問題に発展することはなかったで しょう。そうではなく、祝された人々を攻撃し、町から追放してしまったのです。妬みとは、妬まれる人よりも、実は、妬むその人自身を傷つけるものです。ケ インとアベルの場合もそうです。今、アベルは天国にいるのですから。

A: 私は妬みに屈していないとは言えませんが、それ以上に妬まれる存在のようで す。しかし、神様に対する私の理解が十分とは言えず、そのため妬みが生じるようです。ですから、私たちの想像を超えて、私を含む一人ひとりを、神様は祝す ることのできるお方だと分からなくてはいけません。タイミング、その他の些細なことも神様に委ねていくべきでしょう。心配してしまい、私自身で困難を生み 出しているのですから!神様にとって、難しいことは何もないと頭では分かっているのですが、私の思いでは、しばしば信じることができずにいます。よく私と キャシーは妬まれますが、よく分かりません。それでも、完全に神に頼るように、成長し続けていきたいものです。そうすれば必要な慰めと強さが与えられま す。

P: お父様。あなたの恵みを感謝します。その恵みが私を通して周りの方々に注が れますように。決して妨げられることがありませんように。人に羨まれるほどに与えられた恵みで高慢になることがありませんように!妬みに対処する知恵を与 えてください。特にキャシーは人から妬まれています。あなたを見上げ、信頼し、あなたの展望が十分にあることを知るように助けてください。感謝します。神 様を賛美します!

2009年6月9日火曜日

2009/06/07

使徒 11:19-26

S: 使徒 11:26
弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

O:  ルカが初めて「クリスチャン」という語が使われた場所と状況を、記録するのが重要だと思ったことは、意義深く、興味深いことです。英語では、クリスチャ ンという語は大変、広義に使われているため、もはやその意味を失っていますが、この節の時代では過激な語であったと、以前、読んだか聞いた記憶がありま す。この節の「キリスト者」の表現は、日本語では元々の意味合いを含んでいるようです。これは、元来、やや侮蔑的な意味があったのかもしれませんが、信者 たちはそれを変え、むしろ誇りを持って使っています。ちょうど、アメリカ革命のとき、植民地者たちが「ヤンキー」という語を用いたのと似ています。新しく 信者になった人は全てキリストについて語ったのですから、この語には大変喚起されます。旧約聖書を詳しく知らない人が、イエスを調べ出し、主として献身し ています。その数は多数に及び、熱狂的でさえありました。教会出席がなくて、現代の信者が「キリスト者」と呼ぶにふさわしいかが問題でしょう。

A:  私にとっては、これこそ真のクリスチャンの「原理」に思えます。神学的な論点に拘泥するのではなく、ただイエスにだけこだわるのです。「もしイエスだっ たら」ファンは、実質的に、それこそファンなのであっおて、要点を得ています。つまり、物事を計る物差しがイエスなのです。イエスご自身は、愛こそが弟子 を決定づけると教えています(ヨハネ13:35)。そうではあっても、私たちは宗派に分けたり、自分の属する「(     )派」を自慢しています。 (かっこの中は好きなクリスチャン派名を入れてください。)ですから、イエスの愛と御霊が私たちに流れるために、私は信者がイエスだけを見るように手伝っ ていきます。充分過ぎる宗教があるこの世で、その時にはじめて、世はしっかりして分かるでしょう。

P:  お父様。このみ言葉から始めさせて下さり有り難うございます。しかし、他教会とこの教会内で、常に戦いがあります。悪魔はキリストの一体を恐れていま す。ですから必死で妨害してきます。悪魔の策略に目を覚ましているように助けてください。決して屈することがないようにです。私達が真のキリスト者であ り、常に周りに、イエスを正しく映し出すことができますように。そして、多くの人がイエスの光に導かれ、救われますように。あなたのご栄光のために。感謝 します。ハレルヤ!

2009/06/06

使徒 4:29-35

S: 使徒 4:33
使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

O: この節は前の32節に書かれている、群れが聖霊に下った結果を描写している ものです。クリスチャンの生活は、完全に聖霊の力と臨在に頼って生きることですが、私たちはそのことを忘れがちです。聖霊に満たされ、応答するなら、たと え自己中心さえ小さな問題となるでしょう。それはイエスが私たちにとって全てだからです。信仰を分かち合おうとしない人がいますが、御霊にあふれるなら、 問題ではありません。今日の御言葉が示すように、私たちの証しがとても力強いものとなります。しかし、またこの御言葉で分かるように、それも全て神様から の恵みです。忘れないでいましょう。
聖霊に満たされるとは、しばしば私たちの意思も関わってきますが、それさえも私た ち自身の強さに頼るものではありません。神様は御霊を私たちに注ぎたいと願い、待っておられます。ですから、神に頼ることを選択しましょう。そして、心を 開き、受け入れましょう。いつの時も、神様のみ力と恵みとは私たちの内に、あるいは私たちを通してあるのです。

A: 私は神様の力が私を通して働くのを見ましたが、この節が言うような「非常に 力強い」ものであったとは言えません。本当はそうしたいと望んでいるのですが、さえぎる物を手放せるか、という問題もあります。できる、と言えるでしょ う。しかし、時に私の行動は、どうも、それとは違っているのです。日々の暮らしに信仰深くまことであり、不従順を言い訳せず、いつも神を私の最優先にして 交わりたいと願っています。もっとも、そうでないことが多いのですが。神の恵みを軽んじることなく、恵みにあずかり、恵みなくして希望がないことを心して いたいものです。

P: お父様、あなたの御霊が私とこの教会に下ることを祈ります。祈り続けます。御霊で遮るものを燃やし尽くし、私達があなたの御心を行えますように。この町を、この国をあなたのご栄光へと変えてください。感謝します。ハレルヤ!

2009/06/05

ヨハネ 1:1-18

S: ヨハネ 1:16-17
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。


O: 何と言おうとも、私たち一人一人は確かに恵みにの上にさらに恵みをいただいています。その事実から気をそらそうと、悪魔は躍起になり、まるで神様が私たちをいじめているかのように思わせています。それは、 悪魔が、いつでも欺いているからです。どれほど、私たちが恵みを与えられているか、誰も完全には分かっていません。そうと気づかずに、神様の律法を破って いるからです。神の恵みに身を投げ出すとは、この世的に見て怖いことに思えますが、実は最も安全で、唯一確かなことです。律法を学ぶのは、私達がどれほど 神様の恵みを要しているかを分かるために、ある程度は必要です。けれども、人間的弱さのゆえに、律法自体で救われることはありません。ヨハネがここで書い ているように、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したのです。(NIV版とは違う、ここで使われている、恵みとまことはイエス・キリストによっ て実現した、という日本語表現を私は気に入っています。)

A:  これこそ、まさしく私が広めたい福音の神髄です。ですから、これからも広め続けていきます。まことと、福音を伝える特権から邪魔をしようと、、悪魔はあ らゆる角度から私に仕掛けてきますが、私には神様からの約束があります。神様に仕え、悪魔を避けるなら、悪魔は私を解放する、という約束です。ですから、 神と神の恵みにに焦点を合わせ続け、決して自分の力に頼ることなく、問題に対処していきたいと思います。「恵みの上にさらに恵み」とは、クリスチャン生活 を送る上で、まさに基本的な「作動システム」です。いつも忘れないでいたいものです。

P: お父様、あなたの恵みを感謝します。キャシーの心臓発作 に始まった、ここ数週間の経験を感謝します。家内をひょっとして失うかもしれないと思っただけで、私には大きなストレスでした。それでも、あなたからの恵 みを思い出したのです。私は、本当に恵みの上にさらに恵みを受けているのです。周りの暗い出来事で消沈するのではなく、その恵みに、さらに感謝できるよう に助けてください。昨日、殺人罪から無罪を勝ち取った男性の記事を読みました。有り難うございます。一連の過程の中、彼は生きていることを感謝しているの です。あなたの恵みの深さに、気づき、そこに留まっているように助けてください。いつも変わらず、感謝し、恵みの山の善き奉仕者でありますように。あなた のご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

2009/06/04

ルカ 4:14-30

S: ルカ 4:14
イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。

O:  イエスはご自分がなさったこと以外は、弟子に命じておられません。イエスの公でのミニストリーが始まったのはこの場面からです。イエスはこののち、現 在、この教会の年間聖句となっている「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を あがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)の行いをなさいました。大切なのは、聖霊の力によって真に働く人は必ず知られる、ということです。スタンド プレーは重要ではありません。人に見られることが目的であるなら、得られるのはその報酬だけだとイエスは教えています。しかし、従順に生き、聖霊の力によ る行いだと見られることを恐れずにいるべきです。イエスは、のちにイエスに従った人達に(それは私たちも含まれます。)イエスよりもさらに大きなわざを行 うと言っています。(ヨハネ14:12)この言葉で人々は、数世紀に渡り、奮起し、あるいは消沈しています。なぜなら、私たちは自分自身にばかり目を向け てしまい、神様のみ力が私たちを通して放たれていることを思いつかないからです。教会も学ぶことろが多いにあります。聖霊のみ力によって働くことを学んで いきたいものです。

A:  全く私自身に説教しているかのような内容です!賜物と御霊の力をいただいている者として、言い訳の余地はありません。久しく時間をおいて実感していま す。最近、私は私の人間としての弱さと直面せざるを得ない状況にありました。私は60年間つかわされてきた良き奉仕者としての責任を怠るべきではありませ ん。しかし、そのことに焦点を合わせてはよくありません。信徒を諌める時は、私自身と今の状況から目を離し、イエスに焦点を合わせるべきでしょう。御霊と 恵みと力によってイエスが私を通してあふれ出る、神のご栄光のためです。

P:  お父様。このことを思い出させて下さり感謝します。これまで、もう何度もこのことを教えてきたのに、私自身が新しく学ぶとは皮肉なことです。いずれにせ よ、教えを備えて下さり感謝します。私がイエスを心から真に見上げ、不信仰によってつまずくことなく、あなたが私を通してなさりたいみ業のために、働けま すように。あなたのご栄光のために。ハレルヤ!

2009年6月6日土曜日

2009/06/03

ルカ 2:35-40

S: ルカ 2:34-35
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

O: ここでは、 NIV版と日本語訳に多少の違いが見られます。日本語訳にはマリアの心さえも刺し貫き、多くの人の心の思いが現れるためだと、なっています。言葉の小さな 違いですが、大切なことは人々の、イエスと十字架、甦りに対する反応によって、彼らの信じ方が読み取れることです。私の見方では、プライドと隠れた罪が はっきりと現れていると思います。イエスが弟子に「あなた方は私を誰だと思いますか?」(マタイ16:15)(ピラトが「ではいったい、あなた方がユダヤ 人の王と呼んでいるあの人」マルコ15:12と多少違って表現されています)と尋ねていますが、これは大変重要な質問です。私達がどのようにイエスの応答し、どうあるべきか、これが私たちの永遠の運命を決定するのです。キリスト教の教えを好む人は多いのですが、イエスを主と認めるところまでは至りません。旧約聖書にあるように妬む神様でもあります。添え物となるのは好まれません。神様は私たちの全てに関わりたいと望んでおられるのです。そうでないなら、私たちは神様から外れてしまうでしょう。

A:  今、上述したことに私自身、当てはめて吟味してみるべきでしょう。私の思いはキリストに仕えることですが、いつもそのように行動しているとは言えないよ うです。常に神様に仕えているとは言えません。特に思いの領域においてはそうです。こうした思いこそが、今日のみ言葉にあるように、キリストによって明ら かにされ、気づかされます。自分の弱さを認めながら、しかしそれを決して言い訳にせず、むしろ神様に失敗を告白することで、清めてもらいたいと思うので す。また、他の方と一緒にいる時も、見極める力が必要とされます。彼らの言葉と行動で彼らの心の思いを図っていかねばなりません。彼らが神様からの全てを 頂く機会のために、正しく語っていきたいと思うのです。


P:  お父様。この数日を感謝します。私自身が、ますますはっきりと現わされました。全てをあなたに捧げます。イエス・キリストを主として崇めます。あなたの み心通りに私を用いてください。あなたの御霊が満ちあふれ、私を通して人々がキリストへと導かれますように。人々の救いとあなたのご栄光のために。感謝し ます。神様を賛美します!

2009/06/02

マラキ 1:9-14

S: マラキ 1:11
日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であかめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の間であがめられているからだ。-万軍の主は仰せられるー

O: 私たちはこの歌を胸を張って歌っていますが、期待にあふれて信じているとい うより、むしろ当然のように思いがちですが、そこに違いがあります。クリスチャンになったばかりの人にとっては、きよいささげ物と香が、自分達のいる場所 で、自分たちで、なされることを知っておくべきでしょう。新約聖書には、神様が最も喜ばれるささげ物は、私たちの賛美と礼拝であり、祈りが神に捧げる香で あるとはっきり書かれています。それでは、何のきよい物を神に捧げればよいのでしょうか?神様を見つめ、霊とまことにおいて神様を礼拝することでしょう か?あるいは、隣人に、そう見せることでしょうか?それは、きよいささげ物をしたならば、福音の真実を告げるために、自分自身を捧げることです。すぐそば にいる人も、遠くにいる人も、私たちをともに礼拝するためにです。

A:私は牧師として福音を伝えることに献身していますが、それを単に仕事や義務だ と感じていてはいけません。もし、仕事や義務だと思ったら、その瞬間から私のささげ物はきよくなくなり、受け取っていただけなくなります。最近、私は少々 ストレスが溜まっており、神様は私のそうした弱さを私以上にご存知です。けれども、もちろん、どんな言い訳もすべきではなく、最善のささげ物を神にささげ るべきです。神様は全能です。聖なる方であり、愛に満ちておられます。私の語る言葉一つ一つ、行動の一つ一つにそうした神様のご性質を現わしていかねばな りません。私が、そうすることを怠ってしまうなら、他の方々を神様への献身に加えさせることは、虚しく効果のないものに終わってしまうでしょう。

P: お父様、昨日の全てのことを感謝します。私の弱さをはっ きりと自覚していること、そしてあなたからの恵みを感じています。愛ある妻を感謝します。彼女は私を自己中心の泥沼から引き上げてくれます。私が関わって いる人達には、私ほど恵まれていない人もいます。そうした人たちのために祈ります。日々の暮らしに必要な事柄を保ち、作り出せる知恵を与えらるように祈り ます。手がけることが溜まった時さえ、活力を取り戻し、十分働けますように。あなたの誠を応用し、暮らしに活かし、他の人たちを指導していくよう助けてく ださい。パウロが語っているように、人に教えている私自身もしっかりしていなくてはなりません。感謝します。神様を賛美します!

2009/06/01

ゼカリヤ 12:10- 13:1

S: ゼカリヤ 12:10, 13:1
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

O:  新約聖書には、これがキリストの十字架の預言であるとはっきり書かれています。また、洗礼の時に好んでよく歌われる歌の元になった聖句です。イエスの血 潮で私たち全ての罪と不浄が清められるとは、実に大きな栄光です。しかし、時として私たちは10節に書かれている内容を見落としがちです。(日本語訳では 「哀願」となっていますが、あまりにも深遠な意味を含む語なので、パソコンで調べても難しいほどです。)私達が恵みに満ちた神様からの御霊をいただき、心 に注がれ、悔い改め、そしてキリストの血潮の清めを受けるのです。悔い改めこそが、全ての人の命にとって効果的な贖いなのです。けれども、私たちは神様か らの愛と恵みにばかり目が行ってしまい、悔い改めの必要を見落としがちです。「イエスを受け入れる」ことを望みながら、罪を手放さないでいるなら、それ は、せいぜい見せかけの改心に過ぎません。キリストに献身する時点で、これまでの罪を全て悔い改めるのはできないでしょうが、分かっていただきたいのは、 他に救いの道はないということです。アメリカのクリスチャンでさえ、イエスだけが唯一救いの道ではないと答えていると、ある調査が報告していますが、危険 なことです。単なるキリスト教文化では救われる人などいないのですから。

A:  勿論、真の判断をなさるのは神様ですが、洗礼を頼まれるたびに、私は見極める力を要求されます。ただ、人を見せかけの改心だけで、水に浸けることは、害 にこそなれ、益にはならないからです。ところで、初期の教会がバプテスマを授けることを遅らせたという記述は見当たらないようです。そのことを考えると、 福音を広めることが現代ではうまくいっていないことを示しているようです。イエスは全ての問題への答えを示されました。私達が忠誠を誓い、命を捧げたいと 思っている主としてより、むしろ、イエスその方だけで十分なのです。年齢は無関係です。私の母のように5歳の時にバプテスマを受け、その後の人生を宣教師 として捧げた人もいます。洗礼の準備が整っているかどうかを知るために、律法的な障壁を気にせずに、聖霊様に従い、鋭敏でありたいと思います。誓いのあと も、前も、信仰と知識のうちに彼らを育て、訓練できるように私は信仰を深く持っていたいです。

P:  お父様。私は知恵と強さが足りないことに、はっきりと気づいています。つい、さっきの電話でも、それがよく分かりました。自分の弱さを嘆くのではなく、 あなたに頼っていけますように。どんな形であれ、プライドを捨て去り、あなたからの導きをいただく前でさえ、十分、従い献身できますように。困難さにでは なく、あなたに依り頼むように助けてください。決して悪魔に心の平安と喜びを奪われることがありませんように。キリストにあって、私達が常に勝利者である ことを覚えていますように。あなたに感謝と賛美を捧げられますように。あなたは感謝と賛美に値するお方なのですから。ハレルヤ!

2009/05/31

ゼカリヤ 4:1-10

S: ゼカリヤ 4:6
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」

O:  ペンテコステ/カリスマ教会で、大変好まれている聖句ですが、もちろん全ての教会、全ての信者にとっても真実な内容を含んでいます。この世は、人の権威 にばかり目を向けがちで、生来の能力だと評価しがちですが(実際は神から発しているのです)、真の力はそのようなものではありません。神様は、この教訓を ネブカドネザルに与えました。ダニエルが記録している通りです。神など要らない、あるいは神がいたって出来っこない、といった考えは全くもって愚かです。 かつて、神様が私におっしゃいました。現在、この世で起こっていることの多くは神様の望まれていることではなく、しかし、それを変えないのは神様に力がな いからではないと。黙示録が教えるように、究極的に誰も逃げられません。神様の義と聖が広がり、信じる者に与えられる恵みによって平安となるのです。

A:  こうした意識を信者に伝えるのは大変です。私自身も成長しなくてはなりません。Word/Faith の人達は多くの場合、大変聖書的で、私たちも御言葉を生活に活かしていくべきです。しかし、人間的な弱さゆえに、自分のやりたいように事が運ぶのを望みが ちなのも事実です。けれども、実はそれは神様の御意志で動くのです。ですから私たちはネブカドネザルが炉に投げ入れた三人の若者のような心がけでいたいも のです。力のある神様を人間が命令することなどできないのです。そうした素晴らしいレベルの信仰と信頼、は、ものすごい奇跡を呼びます。私は悪魔の活動を 容認することなく、イエスがなさったように戒めの言葉を発していきます。それはイエスと同じ聖霊が私の内に働いておられるからです。決して、私自身のやり 方ではなく、御霊に従いながら行動していきます。全く疑う余地もなく、神様の言葉に常に耳を傾けていき、み力によって神様の御意志が成就するよう働いてい きます。すべては神のご栄光のために。


P:  お父様。この領域でも私は成長していくべきでしょう。私を諦めないでくださり有り難うございます。先日の朝、問題にばかり目を向けていると問題が巨大に 見えるのですが、あなたに目を向けると問題さえも義となり小さくなっていくのだと思い出させて下さいました。あなたと共にいると、私が直面している問題さ えも、進む道の小さな山に過ぎないのです。御国の到来を祈ります。全てにおいて、あなたの義が、御座のみ前に完璧になされますように。有り難うございま す。ハレルヤ!

2009/05/30

ヨエル 2:12-17

S: ヨエル 2:13
あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い
直してくださるからだ。
O:  私たちには悔恨や嘆きのために着物を引き裂くという習慣はありません。ですから、今日の節は多くの人にとって分かりにくいでしょう。しかし、そうは言っ ても、心を乱すことに対して、様々な表現として外に表すことならしています。ここで重要なことは、神様はそうした表現の形式にこだわっておられないという ことです。むしろ、私たちの心を見ておられるのです。ですから、全く同じように見える人たちでも、神様は片方を受け入れ、もう片方を受け入れないというこ とが起こります。神様が人の心の内側をご覧になるというテーマは、創世記から黙示録まで一貫して述べてあります。そうした心の在り方を神様に向けましょ う。目の前の状況だけを見ていると、神様は愛あるお方だと思えない時があるからです。私たちの視野は大変せまく、人の心さえも見えないのです。今日のみ言 葉が教えるように、神様が、実に愛あるお方だと信じ、行動も誠であると信頼しましょう。自分が望んだ通りに祈りが聞き入れられないからと言って、ふくれる のはやめましょう。

A: この領域でも、私は成長しな くてはいけません。私の周囲でも、この分野でつまづいておられる方が大勢です。彼らの行いが無関係だと言っているのではありません。ただ、恣意的な行いで 判断してはいけないことを伝えたいのです。服を引き裂くなど、そうした行いは文化的な素地からきているのですが、神は文化などをはるかに超越したお方で す。聖書を、文化のモヤにかざしたい思いです。この節さえ、文化的要素を多様に含んで書いてあるのです。私が、使命を受けている牧者として働き、羊を集 め、育てるための必要な分別が得られるように聖霊に心を開き、従っていきます。彼らの救いと神様のご栄光が現わされますように。私も周りの方々も外側では なく、内側の心が変わりますように。あらゆる方面でキリストの体が建て上げられますように。あなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

P: お父様。この多文化の例で示 して下さり感謝します。どうか私が、個人的なプライド、あなたが下さった賜物のプライドから思い上がることがありませんように。むしろ、その賜物をあなた の望まれる形で応用できるように助けてください。私も周りの方々も外側ではなく、心が代わり、あらゆる方面でキリストの体が建て上げられますように。あな たのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/05/29

ホセア 14:1-9

S: ホセア 14:9
知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。

O: 知恵と理解が備わっているかどうかは、その人がどれくらい神様を知っているかで分かります。知性が売り物で、無神論者の英国人科学者の話です。彼 は、まず話の論理からしておかしいのです。彼の本を偏見なしに分析して、彼が幼いころに指しゃぶりをしながら「パパなんていらない」と言っていたのが分か ります。私が今日のみ言葉に心惹かれるのは、神の道が困難ではないと言いきっているところです。(NIV版では「正しい」となっていますが、日本語訳では 「平ら」となっています。)しかし、背く人は、いずれ、つまづきます。困難さは、道よりも、もしろ道を歩く人自身にあるのです。私たちの態度で神様は変わ りませんが、心の在り方いかんで、神に対する考えが変えられるのです。

A:  マタイ6の「神の国とその義とをまず第一に求めさない。」というイエスの教えを怠ったために、私は不必要な困難を数え切れないほど経験してきました。神 様を求めず、従わなかったことから来る失敗の結果を経験したがために、私たちは神様が善い方であることを信じられないでいます。ですから、私は、人々の間 違った考えと自己中心性を捨てさせ、その代り神を求め、聞き従うように、はっきり、毅然として。励まし諌めていきたいと思います。100パーセント私の力 ではなく、完全な書である聖書から教えをいただきながら進みます。それによって、多くの人が勝利し、神様の勝利にあずかって歩むためです。

P: お父様。あなたを知ることがで きた恵みを感謝します。いろいろな形で私にあなたを示して下さり有り難うございます。ますます従順になり、知識が増し、成長するように助けてください。私 が不従順になり、あなたの正しい、平らな道でつまづくことがありませんように。有り難うございます。神様を賛美します!

2009年6月3日水曜日

2009/05/28

エレミヤ 31:1-14

S: エレミヤ 31:9
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らを平らな道を歩いて、つまづかない。

O:  ここで私が気づくのは、NIV 版にある「祈り」という語が日本語訳にないことです。興味深いことに、私が調べた他の英語訳でも多かれ少なかれNIV版 と同じでした。三大日本語聖書でも「祈り」の語は見当たりません。二番目の句にある「私は彼らを連れ帰り、彼らは祈る」の部分です。{他の英訳は 「supplication(嘆願、祈願の意)」}三大日本聖書は全て、殆ど同じように「私は彼らを、慰めながら連れ帰る。」と訳されています。この違い の理由は、私にはよく分かりませんが、恐らく文化的な背景があるのでしょう。正確に伝えようとすれば、文化的偏見は憶測になってしまいますが、何よりも重 要なのは、神に祈り、憐みを乞うことです。

A:  日本の信者が殆ど祈っていないように思えるのが気になります。(アメリカの信者もあまり祈っていないと言えるでしょうが、私が日本でミニストリーをして 大多数の人に実感しています。)神様に語るのが当然である家庭で私は育ちました。今、かえりみて、それが大変な恵みであったと思います。問題は、私がどの ように信者に祈りについて、私と同じように思ってもらえるかです。祈祷会の出席率でその教会の健全性が計れるのだと、よく耳にしますが、その基準から行く と、この教会はかろうじて生きているようなものです!素晴らしさ、喜び、祈りの容易さを信者に伝え、受け入れ、応用し、実行してほしいのです。日本では祈 るための文化的な慣習がありません。アメリカには、食事時、就寝前に祈ります。(怠ることもしばしばですが、少なくとも祈りの概念はしっかりとありま す。)私と同じ考えを持つクリスチャンホームで育った若者を見てきました。力強いとりなしの祈りをする日本人も見てきました。クリスチャンホームで育って いない大人、とりなしの賜物のない大人に対して、どう対応するかを、主に示していただきたいのです。

P:  お父様。これは私に心の中では大きな問題です。それはあなたにとっても大きな問題だからです。人々は祈りに遅く、しかし人前では、声高に、二倍祈りま す。祈りの特権、喜びを示して下さい。特にキリストにある姉妹、兄弟としての一つになった祈りを求めます。この教会だけでなく、大村の交わりのためにもで す。信仰にあふれ、喜び、希望ある祈りを教えてください。あなたのみ業に私たちも加わり働きたいのです。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!


2009/05/27

イザヤ 33:2-17

S: イザヤ 33:6
あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

O:  ここでも日英訳に多少の違いが見られますが、最も大切なことは、日英同じように、強く伝わってきます。つまり、主を恐れることで必要となる基本的な知 恵、知識、救いを与えられるということです。高い教養がありながら、神を恐れない人がいますが、そういった人達には驚かされます。全て世界観に関わってい ることですが、その時は殆ど分からなくとも、所詮、私たちの視線で世界をみています。悲しいことに、現代では、真の聖書観を持って世界を見ることは稀で す。クリスチャンは心にみ言葉を応用する事が必要です。そうすることで、神の視点へと世界観を変えられます。ローマ12が教えているように、この世に調子 を合わせるべきではありません。神様のみ言葉に添った世界観へと変えていきましょう。

A:  ある意味で、この節は、信者の目を開かせ、キリストにあって何者かを分かってもらうために働いている私の原動力となっている表現です。神様を見つめるま で、私たちは自分が誰であるかが、正しく分かりません。聖書的世界観で他の人を見るときも同じです。私は決して人の目を無理やり開こうとは思いません。し かし、聖霊の油注ぎのもと、愛を持って真実を示していくことならできます。そして神が望まれるように、人々を解放し、信じさせ、行動させることができるの です。

P:  お父様、信者に下さっているあなたからの特権を感謝します。昨夜の件と、私がその家族に影響を与えることができたことを感謝します。今朝、ギデオン関係 で聖書を挙げられることを感謝します。子供たちが喜んで聖書を受けとり、実際に読むように祈ります。そしてあなたのみ言葉が子供たちの心に沁み込み、信仰 によって救われますように。私の人との関わりの中で、キリストを示すことができますように。彼らの目が開き、あなたを見ることができますように。彼らの救 いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

2009/05/26

イザヤ 30:15-21

S: イザヤ 30:15
神である主、イスラエルの聖なる方は、そう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。


O:  30年以上も前のことですが、ある働きすぎの宣教師の方に、預言のみ言葉としてこの節を用いたことがあります。正確に引用せずに、最後の行を飛ばしまし た。私は、まさにその人のための神様からのみ言葉だと思いましたが、最後の行を言うのをためらいました。今日でも、神様を信じる多くの人にとって、今も通 用する内容です。神様は私たちにリラックスして信頼するように仰っているのですが、私たちは人間の考え、計画、やり方を持ってしまっています。意図して神 様に逆らおうとしてるわけではないのですが、神様が導いて下さること、あるいは、神様のご計画が最善であることを十分に信頼していないのです。いったん、 そうした考えが言葉になって表現されれば、愚かさが現れます。ここで、問題となるのは、それが無意識のレベルで起こり、明白な態度として現れないことで す。イザヤ40:31の有名な御言は「主を待ち望む者は新しく力を得」と教えていますが、私たちは主を待ち望むことを分からずに、単に口先だけで言ってい ることが多いのです。ヨハネの黙示録3:20でイエスが戸の外に立って叩くとありますが、これは何も未信者のためだけではなく、クリスチャンにも当てはま ります。神様が私たちをみそばに引き寄せたい望んでおられることが分かると、イエスのために働きたいと思い、神様を受け入れるのです。

A:  私は罪を犯しています。そしてどのように悔い改めるのか、よく分かっていません。時間ばかりを浪費し、それでいて、やるべきことが沢山あるのです。神様 が私に働いて、なさって下さるのに、どうやって静かにしているべきかが私には分からないのです。神様のご計画通りにすれば、見事に事がなされるのを知って いるのですが、すべきことと分かっていてもやらずにいるのです。これらは昨日、起こったことです。以前、見たマンガを思い出します。その話の中では、天使 が24時間以内にやるべきことが沢山あるのですが、そのために23時間を祈りに費やしました。キャシーの最近の心臓の問題で、色々な方がこの行に沿ったこ とを彼女に言ってくれましたが、罪人ではありますが、まず、私が一家の頭として手本とならなくてはいけません。


P:  お父様。徒歩の人達と走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できるでしょう(エレミヤ12:5)、とエレミヤに語られた言葉を、私に思い出させて 下さったことを覚えています。この教会の速度が速くなっています。そして私は代表としての働き、あなたの内に休むことを学ぶべきでしょう。決して、あなた からの召を厭うことがあってはなりません!あなたが与えてくださった重荷を運び、それ以外は下ろせるように助けてください。あなたの時宜にかなっていない かが気になります。そのため、ますます心配になり仕事は増える一方です。先に起こる出来事について不安になり、やるべきことの困難さがますます増えていま す。悔い改め、休むことができますように。あなたの強さをいただくために、静かにしていられますように。あなたのご栄光のために。感謝します。神様を賛美 します!

2009/05/25

イザヤ 26:7-13

S: イザヤ 26:12 主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。

O:  うまくいけばいくほど、私体は神様が必要ないと思いがちです。忘れがちなことで、危険なことです。うまくいったことで、神様が私たちを通して働いてくだ さったのだという事実が見えなくなるからです。罪の根源はプライドです。プライドが状況を見えなくさせているのです。正しいことをしている時、この節に書 かれている真実を認めて、私たちは神様に感謝します。しかし、悪いことをしている時には、ご計画から逸れたことを認めて、神様に向かって悔恨と悔い改めを すべきです。この節が教えるように、神様は実に私たちに平安を与えてくださいます。けれども、備え主である方に背いているため、世界中のあらゆるレベルで 平安があまりないのです。

A: これまでの 私の人生のほとんどで、プライドに関して私は問題がありました。これから残りの人生では、プライドの問題に気をつけていたいと思います。主が人々をこの教会に導いて下さり、それが多方面で花開いて
い ます。そんな時こそ、神様のゆえに全てが順調なのだと覚えておくべきでしょう。私は器にすぎません。そして重要なことは私の欠点と優れた点の両方を自覚し ながら、自らが器でありたいと願うことです。この国でリバイバルの兆しがあり、その働きが信者に備えられ、信者を通して起こるべきだと分かってきていま す。信者が自分から目を離して、分かってきているのです。私は、こうした動きに関連して、ますます福音の緊急性を感じます。そのためにも、どの位神様が私 を持ちいられるのか分からなくても、私は目を神様に向けていきます。その時こそ、私は神様から与えられる平安を持ち、神様が私を通してなさったことで個人 的な益を得るでしょう。

P:  お父様。昨日の全てを感謝します。40年の結婚生活の節目と、まだこれからも結婚生活が保てることを感謝します。あなたのなさったこと、そしてそのため に私たちが喜んで働いてきたことに気づきました。感謝します。Pさんの長いミニストリーを感謝します。Pさんに素晴らしい将来を備えるために、彼の心と人 生にあなたが大変大きな働きをしてくださったことを感謝します。彼があなたに仕えていること、御国に他の多くの人を導きたいとの願い、ありがとうございま す。私が彼に助言を与えるときに、知恵と強さをください。短期的にも、長期的にも、彼の道のためには、あなたからのはっきりとした導きが必要です。沢山の 成功者を生み出して下さっています。私もキリストの体のために、あなたのご栄光のために、良き牧者として誠の手本となるよう祈ります。感謝します。ハレル ヤ!