2011年1月16日日曜日

2011/01/13

詩篇 19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に、受け入れられますように。わが岩、わが購い主、主よ。

この節は、実際はこの詩全体において、なぜダビデが“主の御心にかなう男”であったかを顕しています。彼は間違いを犯しました、そしてその中には本当に悪い過ちもありました、しかし彼は神が誰であるかを知っており、そして彼の動機の根底にあるのは主を喜ばせることでした。多くの人々は身体的な行いから罪を考えがちです、しかしここではダビデは、何世紀も後にイエスがマタイの福音書15章18~20節で言ったように、私たちを汚すもの(罪)は私たちの心から生まれるということを取り上げているのです。私は、D.L.ムーディが1世紀前に話したこと-ある若い男性が彼に向かって(人間は)不純な思考を考えないようにするのは不可能だと抗議した時に話した言葉を思い出しました:「あなたはあなたの頭上を鳥たちが飛ぶのを止めることはできません、しかしあなたの頭の上に巣を作るのを止めさせることはできるはずです」。悪魔とこの世界はつねに不純で、反抗的で、そしてあらゆる罪深い考えを私たちに投げかけてきます、ですから私たちはイエスと善きことに心を留め続けて(ピリピ人への手紙4:8)いなければなりません、そうすれば私たちは堅く立つことができるでしょう。

私は戦場はまず他のどの場所でもなく己の心の中にあるということがよくわかっています。私はその領域において時には勝利を納め、時には敗北を喫しました。神はただ裁き主だけではなく、私の巌であり私の贖い主であるということを胸に刻んでいることが大切です。もし主が私の裁き主であるということだけに焦点を置くならば、私の反抗的な性質がしゃしゃり出てきそうになります。しかし、主が私の巌であるということは、主は私を安定させてくださるものであり、人生の嵐の中における私の安全な天国であるということなのです。主が私の贖い主であるということは、主が私を罪から救ってくださるということです。ダビデはそのことを主の啓示によってのみ知りました、しかし私にはイエスの十字架と復活という聖書の記録があります、ですから私は二重に確信できるのです。言葉を司る人間として、職業的と個人的のその両方において、私は私の言葉は神を喜ばせるものであるようにとても慎重である必要があります。私は、口にするあらゆるむだなことばについて、言い開きをしなければならないということを心に留めていなければなりません(マタイによる福音書12:36)!

天にましますお父様、あなたは私自身以上に私が軽々しく言葉を口にする性向をよくご存知です。あなたの栄光とお慈悲に感謝します!私はこのダビデの祈りを今ここで祈ります、なぜならあなただけが私を私自身から守ってくださるからです。私があなたに続いて話せるように助けてください、なぜなら私はあなたに続いてあなたのお考えを考えているからです。そしてあなたのご栄光のために、あなたの御心が私を通して叶えられますように。感謝します。神を讃えよ!

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