2011年1月19日水曜日

2011/01/15

詩篇 36:9 いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

この節は数年前に私の心を打ちました。その表面的な解説は、神の支えのもとで私達は命の光を見るということです。しかし、より深いレベルまで掘り下げると、神の啓示なしにはその(神の)光を見たとしても、それがいのちと真実であるということが見えません。この世界は、ほとんどすべてのことに対して人間中心的な解釈に囚われてしまっています、そして何が真に真実で何がそうでないかを見ることができるようになるには、聖霊の啓発が必要なのです。物質的な価値観に則ったひとつの事例は現在の極端な気候です。あらゆる種類の解説が展開されていますが、それらの大半は神を無視したもので、それらは究極的に行き詰まります。より深い真理とは人類がコントロールするのではなく、神の前に謙虚であることが最も賢明な道だということです。人類は地球環境と生態系にダメージを与えてきました、しかしその解決策はまだ生まれてもいない赤ん坊達の大量虐殺によって人口を減らすことでは見つかりません!私はこの課題についてずっと議論し続けることも出来ます、しかしそれは誰の利益になりません。要は、私達が真に大切な物事を見極めるには神の啓示が必要だと言う事なのです。イエスはこの問題について盲目に生まれついた男性の話を用いてふれています(ヨハネの福音書9章)、彼は言っています、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私達は目がみえる』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」と。

私はこの領域で後ろ指を刺す立場に居るはずもありません、なぜなら私も他の人々と同じく、なにかについて自分の理解が唯一正しいものだと思う傾向があるからです。それと同時に、私は聖霊と御言葉をとおして(神の)啓発を多少なりとも経験してきました、 そして私はその導きに背かずに歩まねばなりません、それが社会的な規範(政治的に正しいかどうか)に適合しているかどうかにかかわらずとも。わたしは愛をもって真実を語り(エペソ人への手紙4:15)、私と私の聞き手に神の光を注いでいただかねばなりません。

天のお父様、あなたは私の、様々な問題について声高に議論したがる性質をよくご存知です、そしてどのみちあなたは私に我慢してくださっています!私自身の理解を信頼するのではなく、あなたを認めることによって、私の意識に上るすべてのものにあなたの光を見つけ出すことができるよう助けてください、ちょうど箴言3章5~6節にあるように。あなたの光を私の周りにいる人々に何の障害物もなく伝達する効果的な「視神経繊維」となるよう助けてください、そして彼らが、自分達の救いとあなたのご栄光のために、言葉に表すことのできるすべての感覚においてあなたの光を認めることができますように。感謝します。神を讃えよ!

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