2009年3月8日日曜日

2009/03/03

イザヤ56:1~8

S: イザヤ56:7「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

O: この御言葉が引用されたのは、イエスがミニストリーの中で最も劇的な場面でしたが、ここでの教え は、強調してもしきれないほど重要でしょう。多くの場合、この句は今日、祈り自体に関連して引用されていますが、実は、元来は、祈り自体は二次的な意味合 いでした。ここで最も大切な教えは、全てを含むということです。つまり、外国人や宦官のような人達であっても、イスラエルの神の家に献身するならば、生ま れついてのユダヤ人と同じ立場にあるということです。この教えを、イザヤが公言したときは、かなり過激なことであり、多くのユダヤ人には受け入れ難いこと でした。イエスの時代に、市場として使われていた宮は非ユダヤ人の裁きの場であり、ヤァヴェを拝みたい人達が歓迎された場所でした。宮に動物を持ちこみ、 商いをすることで、イスラエルのユダヤ人は、自分たちの「集団」に加わらない人を、効果的に締め出したのです。納屋のような建物も悪くはありませんが、騒 がしい市場では祈りに専念することは大変なことでしょう!

A: 最近、「求める人の感受性」に、多くの議論がなされていますが、先月の牧師会のセミナーで、 Mark ・Estesが示した見方は正しいものと思います。人気を得ようとして、信仰に妥協してはいけないし、同じく人気を得ようとして、世の文化を持 ちこんではいけませんが、仲間でない人達を不必要に失望させていることにも、敏感であるべきです。日本の教会は、外部の人が入りにくいことで、よく知られ ています。多くの場合、日本の文化のせいでしょうが、初期の宣教者たちの「私たちのやり方はこうなんだ。黙って受け入れてください」的なやり方からも、無 意識的に来ているのではないかと思います。聖書的文化でさえ、その多くは、教会に長く行っていない人たちにとって、親しみにくいことを、分かっていないと いけません。特に、私は教会で生まれたので気をつけていなくてはいけません。私がすべきことは、教会活動ができるだけ人に来てもらいやすいように、目的や 理由に妥協せず、手段を講じることでしょう。献金をいただく方法も、正しい方向に向かって進んでいるように感じます。しかし、聖霊様がこの教会の壁を取り 除くために示して下さっているのですから、何よりも、まず、聖霊様に敏感でありたいと思います。

P: お父様。私たちに、して下さっている多くのことに感謝します。とらさんのいるウェスレヤン大の教授 が、この教会に出席したいとの意向、そして教会の建物の設計が、本当にバリやフリーであることに感謝します。私たちが壁を立てているとしたら、どうぞ取り 除けるように示して下さい。そして、人々の心に作った障壁を、どうぞ、あなたが壊して下さい。この場所を通して、沢山の人たちが、あなたの御国へと導かれ ますように。彼らの救いとあなたのご栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

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