2009年3月12日木曜日

2009/03/10

ダニエル 9:20-23

S: ダニエル 9:20 私はまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、

O: ダニエルは、個人的な義と悔い改めを示した人として最高のモデルです。ダニエルが完全に神様に献身したことは、聖書の記録からうかがい知ることができま す。ダニエル自身の人生よりも神に従うことに重きを置きました。しかし、それで、ダニエルが完璧だったわけではありませんし、自分の不完全さをしっかり自 覚していました。さらに、彼の民が神様に対して、集団でひどい罪を犯していることも気づいていました。そして、イザヤと同じように、人々の罪をダニエル自 身の罪として告白しています。こうした悔い改めの態度で、ダニエルは自分の国のとりなしをし(この節では「山」、つまりシオンの山)、神様のみ前に真摯に 祈り、身を伏せています。神様はこうした祈りに答えてくださいます。神様が私たちの祈りを聞いて下さっていないように感じるときがあります。神様は、た だ、私たちが自己中心、貪欲さを捨て、神様と同じ心を持つのを待っておられるのです。私たちが赤ちゃんの泣き声にすぐさま、応答するのと同じように、神様 は、クリスチャンになりたての人には、神様がおられ、愛しておられる確信を与えるために、しばしば祈りに答えてくださいます。しかし、私たちが、赤ちゃん の泣き声にしょっちゅう、反応していては、赤ちゃんの成長は望めません。神様は、人間以上に良い親なのです。私達は、神様を操作することはできませんが、 神様に十分働いて欲しいと願うなら、私達が信仰と、献身、神様と同じ心を持つべきです。それが、できた時に、神様の御業が私たちに十分、現わされるでしょ う。

A:  神様が私に預言的な働きをするように求めておられるのを感じます。ですから、悔い改めと聖さについて、自己吟味してみなくては、いけません。Cindy Jacobが、本に書いていますが、神様のスポークスマンになりたいと望むなら、他のクリスチャンにとって平気なことも、清さの妨げになります。決して、 それは、「あなたより、私は聖い」という意味ではなく、私の優先すべきこと、基準、神様が私に与えてくださった最善をしなかったことに対する悔い改めを、 自己吟味する、という意味です。私ときたら、自己弁護の口実を設けるのが、うまいのですから!便利なこと、快適なこと、その時に楽しいことではなく、むし ろ、最も大切なことを行動していくべきでしょう。

P:お父様。私の肉にとっては、喜ばしいことではありませんが、私に、より高い聖を 求めて下さり有り難うございます。しかし、従うことで、御国の喜びが、この世の楽しみと比較にならないことだと、知ることができました。漠然を時間を浪費 するのではなく、祈りに専念する時間を持てるように成熟させて下さい。この世のことにではなく、あなたの心と思いで、私の心を満たせるように助けてくださ い。この世にあって、私があなたの有益な証し人となり、あなたの働き手となり、御国のため、あなたの御心が成就するために用いられますように。あなたのご 栄光のために。有り難うございます。ハレルヤ!

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