2009年3月29日日曜日

2009/03/24

ルカ 12:1-12

S: ルカ 12:8-9
「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」

O:  イエスは、砂糖にくるんだ言葉で警告を発したりは、なさいません!イエスが試練の時に、ペテロはイエスを知らないと言いました。その後、ペテロはこの言 葉を思い出したことでしょう!だからこそ、復活したキリストと出会い、赦されたことに、ひとしお安堵しました。今日、よく見られる問題は、キリストを知ら ないと言う問題より、むしろ、クリスチャンであることを隠そうとすることです。あからさまでは、ありませんが、周囲に合わせ、同調しなくては、というプ レッシャーが根付いています。とりわけ、日本のような非キリスト教文化では、世間の流れに対抗するのに、勇気がいります。クリスチャンであることを公に 言った方が、より受け入れられると、私は感じます。私は自分自身、公言するクリスチャンで、むしろそうすることで、拒絶より代替を受けているからです。真 のクリスチャンは、普通の仏教者や神道者より、信仰にもっと積極的です。活動の代わりとなる事を見つけるのは、それほど大変ではないでしょう。決して、た やすいわけではありませんが、イエスは、その重要性をはっきりと示しています。

A:  私は、日本の宗教伝統に合わせるために、個人的なプレッシャーを感じたことはありません。兄弟、姉妹が、この伝統のため、共感を持つのに苦労していま す。しかし、それでも、私はキリストに忠誠を、強く、はっきりと誓う必要性を公言するのをやめません。私の仕事は、カトリックの慣習と混ざって、複雑に なっているように思えます。カトリックでは、儀式に香をたきます。お通夜や葬式で香をたくのは彼らには、些細なことに思えるでしょうが、しかし、神に香を を焚くのと、故人に香を焚くのでは、大きな違いがあります。ですから、私がこの違いを信者に、または尋ねられたら誰にでも、うまく説明できるように、聖霊 様の知恵と導きが必要です。私は、慢心からではなく愛で、怒りからではなく恵みで、キリストを教え広め、生きた模範となるべきです。沢山の方がこの教会の メンバーになり、自分たちの必要を悟り、悔い改めと信仰によってキリストに帰依してもらいたいのです。彼らが救われるためにです。

P: お父様。私達は、一体何者かに話題が戻るのですね?私たちがキリストにあって、何者であるかを、この数年、私に強く語って下さり有り難うございます。そして、私はそのように生きることを学んでいます。この件を考えていると、まさにウオッチマン・ニーが「The Normal Christian Life」に書いている内容です。私の人生のあらゆる場所、瞬間でキリストがいることを認められるように助けてください。そして、私へのあなたの目的が全て達成されますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

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