2009年5月20日水曜日

2009/05/14

エズラ記 9:5-15

S: エズラ記 9:13
「私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、-事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました。」

O:   聖書では二度以上にわたって、代表的な悔い改めの記録が見られます。その悔い改めの中では、個人的には無実であるのに神の御前で、人々の罪のために悔いて います。まず、第一にダニエルが思い起こされ、詩篇にもその例が幾つか見られます。今日の節では、エズラの声高な公衆での悔い改めによって、他の人をも悔 い改めへと促されています。このような全ての場合の特徴として、悔い改めた人は、自分の犯した悪を認めただけでなく、神様が寛大で、慈愛に満ちた方である ことが分かりました。事実、これはおそらく、心からの悔い改めには、その通りです。自らの犯した悪のために、罰を受けたことで、神様に対して怒る人がいま すが、それは、まだ心から完全に悔い改めていないのです!ですから、神に怒ることは、とても危険なのです。(しばしば、まだ罰になっていないことにさえ、 私達は怒ってしまいがちです。しかし、私達が望むことを与えられないのは、その時は脇に逸れたことのようでも、むしろ訓練と憐みなのです。) 真の悔い改めは、神を聖、義なる審判と認めることにつながります。そう認めたときに、神が私達に対して、すでに恵み深い方であったことが分かります。神様 の神聖さを知るほどに、私達の希望がキリストの十字架にしかないことが理解できます。それによって、十字架に反することは、全て悔い改めるようになるで しょう。

A:   悔い改めるべき理由に関してなら、私は沢山あります。町を歩く平均的な人は、自分の罪について、ほんの少ししか気づいていません。彼らには、神様の神 聖さの啓示がないからです。しかし、私達は神様に近づくほど、私達が、自分の聖さではなく、神様の聖さに頼っていることが、はっきりと分かってきます。聖 さに関してなら、私達は汚いぼろ切れにすぎないのですから(イザヤの表現)。私は、悔い改めを日々、新たにし、聖霊様がスポットを当てておられないこと は、深く掘り下げず、神様が、その時に取り扱っておられることを見ます。私は悔い改めの必要性と特権を教え、信者が敗北ではなく、勝利の道を歩むように導 きます。確かに私達は有罪です。しかし、神様はその罪をもカヴァーする道を備えて下さっています。清められるのです。何と素晴らしい知らせでしょう。信者 が悪魔に騙され、敗北しないように、彼らの罪と神様の備えを理解するように助けて行きたいと思います。


P: お 父様。悔い改めの特権を感謝します。キリストの十字架を有り難うございます。十字架のために悔い改めることができるのです。悔い改めと反省の違いを理解 し、人に教えられるように助けて下さい。彼らが過去の罪を、あなたへの勝利へと変えられますように。あなたと共に、私達が正直であるように助けて下さい。 あなたの真実で私達を自由にしてください。あなたのご栄光のために。
感謝します。神様を賛美します!

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