2009年6月6日土曜日

2009/06/01

ゼカリヤ 12:10- 13:1

S: ゼカリヤ 12:10, 13:1
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

O:  新約聖書には、これがキリストの十字架の預言であるとはっきり書かれています。また、洗礼の時に好んでよく歌われる歌の元になった聖句です。イエスの血 潮で私たち全ての罪と不浄が清められるとは、実に大きな栄光です。しかし、時として私たちは10節に書かれている内容を見落としがちです。(日本語訳では 「哀願」となっていますが、あまりにも深遠な意味を含む語なので、パソコンで調べても難しいほどです。)私達が恵みに満ちた神様からの御霊をいただき、心 に注がれ、悔い改め、そしてキリストの血潮の清めを受けるのです。悔い改めこそが、全ての人の命にとって効果的な贖いなのです。けれども、私たちは神様か らの愛と恵みにばかり目が行ってしまい、悔い改めの必要を見落としがちです。「イエスを受け入れる」ことを望みながら、罪を手放さないでいるなら、それ は、せいぜい見せかけの改心に過ぎません。キリストに献身する時点で、これまでの罪を全て悔い改めるのはできないでしょうが、分かっていただきたいのは、 他に救いの道はないということです。アメリカのクリスチャンでさえ、イエスだけが唯一救いの道ではないと答えていると、ある調査が報告していますが、危険 なことです。単なるキリスト教文化では救われる人などいないのですから。

A:  勿論、真の判断をなさるのは神様ですが、洗礼を頼まれるたびに、私は見極める力を要求されます。ただ、人を見せかけの改心だけで、水に浸けることは、害 にこそなれ、益にはならないからです。ところで、初期の教会がバプテスマを授けることを遅らせたという記述は見当たらないようです。そのことを考えると、 福音を広めることが現代ではうまくいっていないことを示しているようです。イエスは全ての問題への答えを示されました。私達が忠誠を誓い、命を捧げたいと 思っている主としてより、むしろ、イエスその方だけで十分なのです。年齢は無関係です。私の母のように5歳の時にバプテスマを受け、その後の人生を宣教師 として捧げた人もいます。洗礼の準備が整っているかどうかを知るために、律法的な障壁を気にせずに、聖霊様に従い、鋭敏でありたいと思います。誓いのあと も、前も、信仰と知識のうちに彼らを育て、訓練できるように私は信仰を深く持っていたいです。

P:  お父様。私は知恵と強さが足りないことに、はっきりと気づいています。つい、さっきの電話でも、それがよく分かりました。自分の弱さを嘆くのではなく、 あなたに頼っていけますように。どんな形であれ、プライドを捨て去り、あなたからの導きをいただく前でさえ、十分、従い献身できますように。困難さにでは なく、あなたに依り頼むように助けてください。決して悪魔に心の平安と喜びを奪われることがありませんように。キリストにあって、私達が常に勝利者である ことを覚えていますように。あなたに感謝と賛美を捧げられますように。あなたは感謝と賛美に値するお方なのですから。ハレルヤ!

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