2009年6月3日水曜日

2009/05/28

エレミヤ 31:1-14

S: エレミヤ 31:9
彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らを平らな道を歩いて、つまづかない。

O:  ここで私が気づくのは、NIV 版にある「祈り」という語が日本語訳にないことです。興味深いことに、私が調べた他の英語訳でも多かれ少なかれNIV版 と同じでした。三大日本語聖書でも「祈り」の語は見当たりません。二番目の句にある「私は彼らを連れ帰り、彼らは祈る」の部分です。{他の英訳は 「supplication(嘆願、祈願の意)」}三大日本聖書は全て、殆ど同じように「私は彼らを、慰めながら連れ帰る。」と訳されています。この違い の理由は、私にはよく分かりませんが、恐らく文化的な背景があるのでしょう。正確に伝えようとすれば、文化的偏見は憶測になってしまいますが、何よりも重 要なのは、神に祈り、憐みを乞うことです。

A:  日本の信者が殆ど祈っていないように思えるのが気になります。(アメリカの信者もあまり祈っていないと言えるでしょうが、私が日本でミニストリーをして 大多数の人に実感しています。)神様に語るのが当然である家庭で私は育ちました。今、かえりみて、それが大変な恵みであったと思います。問題は、私がどの ように信者に祈りについて、私と同じように思ってもらえるかです。祈祷会の出席率でその教会の健全性が計れるのだと、よく耳にしますが、その基準から行く と、この教会はかろうじて生きているようなものです!素晴らしさ、喜び、祈りの容易さを信者に伝え、受け入れ、応用し、実行してほしいのです。日本では祈 るための文化的な慣習がありません。アメリカには、食事時、就寝前に祈ります。(怠ることもしばしばですが、少なくとも祈りの概念はしっかりとありま す。)私と同じ考えを持つクリスチャンホームで育った若者を見てきました。力強いとりなしの祈りをする日本人も見てきました。クリスチャンホームで育って いない大人、とりなしの賜物のない大人に対して、どう対応するかを、主に示していただきたいのです。

P:  お父様。これは私に心の中では大きな問題です。それはあなたにとっても大きな問題だからです。人々は祈りに遅く、しかし人前では、声高に、二倍祈りま す。祈りの特権、喜びを示して下さい。特にキリストにある姉妹、兄弟としての一つになった祈りを求めます。この教会だけでなく、大村の交わりのためにもで す。信仰にあふれ、喜び、希望ある祈りを教えてください。あなたのみ業に私たちも加わり働きたいのです。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!


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