2009年6月19日金曜日

2009/06/14

ローマ 1:1-7

S: ローマ 1:5
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の努めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。

O: 神様は、そのご性質の故に,先ず何よりも、恵みに満ちたお方です。私たち一人ひとりにご計画を持っておられるが故の恵みであり、人類全てを救うというご計 画です。これを、私の祖父のW.O.Carverは、パウロの書物の研究から「長きにわたるご計画」と呼びました。パウロは弟子としてキリストの体となる ように恵みを受けました。誰もが、こうした特別な召しを受けるのではありませんが、召しに対する彼の表現は私たちに感慨深さを与えてくれます。パウロは自 分の仕事とは人々を信仰に従わせることだと語りました。救いは信仰を通した恵みによってなされますが、救いの信仰は神に従順であることです。イエスに従わ ず、口先だけで主と呼ぶのは無意味だとイエスは言っています。心から神に献身し、従わないのに、クリスチャンと呼ばれる人が多くいます。彼らの国は「クリ スチャン」国家と呼ばれていますが、痛みを伴っていません。つまり、彼らは国が自由を謳った時点で、ただ口先で述べているにすぎません。追従です。彼らの 「信仰」は救いの信仰ではありません。従順を生み出すものではないからです。上に述べたように、救いは信仰を通した恵みによるもので、神に従うことを意味 するものであるべきです。

A:  私は自身の信仰レベルするために従順さの表示しておくべきでしょう。神に信頼すれば信頼するほど、ますます従順になっていきます。同時に、福音を明確に 正確に教えるよう慎重であるべきです。一部の人が言うような、「生半可な恵み」であってはいけません。律法主義であってもよくありませんが、クリスチャン であることで犠牲が全くないわけではないことも教えないわけにはいかないでしょう。悔い改めはまさに大きな問題です。イエスは人々に信じてから悔い改める よう教えてはいません。そうではなく、悔い改めてから信じるように教えています(マルコ1:15)。しかし、苦行者のように、失敗のために鞭打ったり、人 にそうすることを教えてはいけません。神様の恵みは謎です。ですから、私を通して、そして私の中で、神様に示していただくよう求め、喜んでいたいのです。

P: お父様。悔い改め、信仰、従順、恵みを教える時は、決まって困難に陥ってしまいます。どうか、私の霊と魂に示して下さい。そして、他の方にはっきりと教え ることができますように。昨日観たDVDのように、私は真実に対して誇張表現してしまいます。ただ不要な物と一緒に大切なものまで、失くしたくはないだけ です。今日も、明日も毎日、信仰に従い、あなたの恵みの中を歩めますように。感謝します。神様を賛美します。

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