2009年4月29日水曜日

2009/04/26

コロサイ 1:24-29

S: コロサイ 1:28-29
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、努力しながら奮闘しています。


O: この節も、また、全ての牧師への召しの御言葉です!「すべての人を、キリストにある成人(成熟)として立たせる」ことは不可能のようですが、それは私達自 身の力によるのではなく、キリストの力によって、うまく均衡が保たれます。その働きは「戒め、教え」ることで与えらます。あることに秀でた牧師もいます が、適正なバランスを持った牧師は殆どいません。両方を上手くこなす鍵は励ましていく方法にあります。信者の生き方に、希望と神様の目的が成就するように 鼓舞することです。全ての人にとって、これは難しいことです!成長を嫌い、甘やかされ、あるいは、霊的な自殺という選択さえしてしまうなど、霊的成熟を拒 んでしまうのが現実です。しかし、それで神様をあきらめる口実にはなりません。確かに苦しいものですが、キリストの力が働いてくれます。

A:  今。まさに私はこの問題に直面しています。と言うのも、ある親切な夫婦が、私達が彼らを十分に歓迎しなかったために、もう、この教会には来ないと告げた からです。もし、彼女が、教会に来なくなった理由を教えてくれなかったら、私は、Mark Estesの「ケアの文化」をうまく構築できていなかったことに気づかなったことでしょう。主は、私にMark Estesのセミナーに出席させてくださいました。そこで私はDVDを買い、家に持って帰ってきたのです。ですが、教会内に、この教えを伝えることをして いませんでした。信者にセミナーの内容を理解させ、ケアの文化を実践していなかったのです。ケアーは大変な仕事です。特に牧師にとっては!私は、努力し て、信者を諌め、教えながら、霊的成長のケアをしていかねばなりません。私が教え、それでも、信者が教えを受け入れないのならば、それは彼らの責任です。 正しい態度ではありません。諌めることは教えに必要なことです。しかし、今の問題が示しているように、私が教えを怠っているのです。つまり、人ではなく、 私自身が責められるべきです。


P: お父様。気づかせて下さり感謝します。目を覚ましているように助けて下さい!例のご夫婦がクリスチャンであったことを感謝します。なぜなら、彼らはすでに 救われていて、ただ交わり方の問題だからです。私から始めていきますが、どうぞ、ケアの文化をどう教えていくか示して下さい。殆どの信者は、ケアの表現と して、私がしていることを分かっていません。これ見よがしにしているのではありませんから、信者が気づかなくとも、それ自体は悪くありません。しかし、彼 らは手本によって訓練され、手助けされる必要があります。誰とでも広く付き合うことは、私の能力では不足していて難しいことですから、信者を指導するため にも、あなたの助けと強さを求めます。信者は多忙です。ですが、基本的な問題は、私が抱えている問題と同じように、ケアに関わることでもあります。信者が 彼らの快適範囲から抜け出すためには、私自身が快適範囲から抜け出るべきでしょう。そのための、あなたからの恵みと油注ぎを求めます。キリストの体のため に、そしてあなたのご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美しま。

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