2009年7月6日月曜日

2009/07/02

ガラテヤ 2:11-21

S: ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

O: あまりにもよく知られた御言葉ですので、この節の他の部分について書こうかと思ったくらいですが、やはりこの御言葉のインパクトは強く抗しがたいです。こ こでは、人は全て罪人で死に渡されるべきで正当化の余地はなく、モーゼの律法は正しいのだとパウロは説いているわけです。ですから、私達はキリストと共に 十字架に架けられたという霊的事実を受け入れなくてはならないのです。私たちの代表として、私たちの罪のために罰を負ってくださったのです。つまり、十字 架に架けられた人が死に、それでいて私たちは生きているわけです!アメリカの刑務所では、誰かが独房から出され死刑執行がなされることを、「死人が歩く」 と言います。真のクリスチャンとは死人が歩くことです。しかし、ゾンビ映画のひどいシーンとはうって異なります。永遠の命をいただいている私たちは、キリ ストを知らない周囲の人よりも実はしっかりと生きているのです。死ぬことはないのです!たとえ肉体の死が訪れようとも、私たちが死ぬことはありません。イ エス様が約束して下さっています。(ヨハネ11:25~26)

A:  そういった生き方が何と難しいことなのでしょう!喜びを奪い去るような状態を自ら作り出し縛られてしまっています。Mさんのように「白血病の戦いに敗れ た」方には悲しみを覚えます。彼女の苦痛が無くなり今や自由になったのでしょうが、単純に喜ぶことはできません。私たちは苦痛からの解放を楽しみにするよ りも、肉体の痛みと問題で疲れ果てます。Mさんは、しかし、それができた人でした。私も、苦痛に疲れるという罠にはまりがちです。けれども、この肉体に長 くいればいるほど、ますますこの肉体から抜け出たくなります!単に肉体的な側面だけではなく、さらに大きな、さらに力強い霊的事実にますます見つめていた いと思います。神様が私のためにご用意なさった道をさらに歩みたいのです。悪魔の放つガラクタには目をくれたくもありません。かと言って、無責任に問題や 状況を無視してはいけません。問題や状況などで疲れ果ててしまっても、よくありません。キリストの命を歩む時、もっと多くの方とともに、この罪と死の現実 から脱出し、神様の御国に向かいます。

P:  お父様。あなたの驚くほどの恵みを感謝します。あなたの道を十分歩み、軽んじることなく、喜びを分かち合っていくよう助けてください。私や他の方に問題 がある時は、全てをあなたに委ねることができますように。そして乗り切るための知恵を力を与えてください。そうしたプロセスにあっても喜んでいられますよ うに。なぜなら、私たちは説明できないほどの栄光をあなたが用意なさっているのを知っているからです。あなたのご臨在を喜んでいるからです。有り難うござ います。ハレルヤ!

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