2009年2月21日土曜日

2009/02/18

創世記15:1~6

S: 創世記15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

O: この節のはとても重要です。重要性を強調してしきれいほどです。救いの基礎は信仰によるのであり、 決して行いによるのではありません。この時点では、アブラハムに対して神はあまりご自分を現わしておられません。忘れがちですが、聖書に出てくるこの時代 の人達は、まだ聖書を持っていませんでした。アブラハムに分かっていたのは、個人的に関わって下さる生きた神であることだけでした。彼にとっての神は、月 の神や彼の出身地の人々が崇めていた神ではありませんでした。(ところで、モハメッドの環境は多神教であったのですが、その多くの神の中から、月の神を選 び、アラーと呼びました。信頼できる学者の説です)神はアブラハムに直接話しかけ、神が現実であると彼は知りましたが、神について多くは分かりませんでし た。神様の約束が不可能に思えるときなどは、神を信じ、信頼するのは大変なことだったと分かります。アブラハムはまだ守るべき法を与えられていなかったの ですから、この時点では、神は、アブラハムの信じる決断、信頼し献身する思いを見て、彼を義だと認めました。パウロもまた、天地がひっくり変えるほどの出 来事を通してハバククの言葉を借りて示しています。「義人は信仰によって生きる(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ハバクク2:4)」です。さらに、へ ブル書を書いた人物もまた、同じように述べています(へブル10:38)。地球上に、このような確固とした基礎を持った宗教は他にありません。このことを 忘れているクリスチャンさえいるようですが。神様は、先ず何よりも私たちの心の中をご覧になります。神に心を明け渡すなら、行いも伴うからです。ヤコブと 第一ヨハネにあるように、これは難しいバランスある行為となります。ですから、私たちもいかに神に従っているかで、神への信仰の度合いがわかるでしょう。

A: 私は完全な従順を持って行動し、教え、決して怠ることのないようにしたいと思っています。アウグスティヌスは「神を愛し、喜ばれるように行え」と諌めましたが、その教えは今もそのまま通用します。ただ、そのためには高い霊的成熟がいるでしょう。神を真に愛することは、神様を喜ばせようと望むこと以外の何物でもありません。へブル5:14にあるように、良 いものと悪いものの判断を狂わせる悪魔の欺きを見分けるために、経験によって見分けられるように訓練していなくてはいけません。私は聖霊様が私の心と、私 が指導する人たちの心に働いて下さると信じ、頼っています。しかし、パウロが教えたように、私は信徒らを「教え、諫め、励まし」ていきます。そうすること で、信仰によって生まれる義のうちに彼らが成長するためです。

P: 天のお父様。私にあなたの御言葉を下さり有り難うございます。御言葉を広め、伝えられる素晴らしい 特権を下さり感謝します。昨日CGN TV にメッセージが三つ収録できました。その間のあなたの導きと油注ぎに感謝します。仕事で成績評価をする日が近づいていますが、気にせずにメッセージ ができました。私への沢山の恵み、本当に感謝します。あなたを信じる選択ができたこと、あなたを知ることができたこと、それ以来、御言葉とあらゆる手段を 用いて、多くを私に語ってくださったこと全てを有り難うございます。もっともっとあなたに従うために、心からあなたを愛し、信じ、信頼するように助けてく ださい。あなたのご満足とご栄光のために。有り難うございます。神様を賛美します!

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