2009年2月12日木曜日

2009/01/13

S: ヨハネ11:14~16 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだ のです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるために、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼の元に行きま しょう。」そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

O: 私は当初、弟子たち、あるいは少なくともトマスは、イエスの意味したことを考えたのだと理解してい ました。しかし、ダビデ王の時代まで遡って、「行く」という言葉を見てみると、死人は死んでしまっているのだという意味の表現だと気づきます。弟子たち は、エルサレムの指導者たちがイエスを殺したがっているのを知っていました。それで、ここではイエスは死人のいる方向のことを言ったのです。トマスの言っ た献身の言葉が際立っています。彼はどこにでも行く、たとえそれが死であっても、イエスについて行くのであれば従うと言ったのです。のちに、トマスがはる ばるインドまで福音を広げに行ったと伝えられていますが、まったく彼の信仰があればそれも当然です。イエスは、弟子たちの献身に報いることができたのです から、ラザロを生き返らせてイエスは喜んだのでした。もっともトマスは、イエスの復活を信じなかったのですから、トマスは部分的にしか寄与していなかった のですが。

A: 私は自分の献身度がどれくらいなのか気になります。殉教の形でイエスに着いて行くことを求められた ことはありません。果たして、不自由さがあってもイエスに従うのを躊躇しないでしょうか?失意の中にあってはどうでしょうか?挫折する状況ではどうでしょ うか?自分の未熟さに驚かされる時があります。私は、へブル書にあるように「信仰の完成者、作者であるイエスに目を向けて」いたいと思います。そしてこれ からのレースに忍耐を持って走りたいものです。よく言われるように、それは50メートル走ではなく、長距離マラソンかそれ以上に長いのです。二度以上、私 はリタイヤしそうになりましたが、そのたびにいつも主が私を連れ戻して下さったのです。ですから、焦点をゴールに向け、忍耐強くあり、気をそらされること なく、道から外れず、減速することなく、さらに走り抜きたいのです。神様は私に自由意思をくださいました。私は、神様に完全なる献身をもってお返ししたい のです。

P: 天のお父様。瞬時の理解を感謝します。すべての道でイエスに従えるように、私が信者の模範となれる ように助けてください。日曜にこのことをテーマに説教しようと思いましたが、今は、信者はプレッシャーに感じることでしょう。マーク・コナーのCDを有り 難うございます。他にも沢山のメッセージが入っていました。信者に必要な知識とすべきことを訓練し、教えるために、あなたに従い働けますように。必要な時 間と労を惜しまず、人々をあなたへ引き寄せるための働きができますように。そして、彼らの障害を取り除くことを助けることができますように。あなたのみ心 である勝利を私たちが経験できますように。あなたのご栄光のために。感謝します。ハレルヤ!

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