2009年2月21日土曜日

2009/02/19

創世記17:1~16

S: 創世記17:9 「あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。」

O: わたちたちが今いる地点に応じて、神様は取り扱って下さいます。かつて、アブラハムは神を全く知り ませんでした。それで、神様はアブラハムが理解しやすく、忘れないように、教え始めてくださいました。高い道徳の観念は、アブラハムには難しかったので しょう。そのために、先ずわかりやすく割礼という教えを与えました。神が望んでおられるのは私たちの心ですが、当時のように原始的な社会では、性殖器に関 わる決まりごとの方が、より身近で分かりやすかったのです。神は、土地や無限に広がる素晴らしさを示すなどの魅力的な約束を見て分かるように、よく「飴と ムチ」的方法を用いられます。しかし、同時に、誰もやりたがらないような手厳しいことも要求なさいました。まだ当時は麻酔はありません。こうした肉体の痛 みを伴う行為で、献身の表明を求められたのです。祝福のためだけでなく、痛みを伴っても、なお神に仕えることを望まれたのです。自分の快適な範囲を出よう とせずに、神の御意志を求めることは、自己中心的な幻想と言えるでしょう。

A: 今日の御言葉を聞いて欲しい人が沢山います。彼らは両親から与えられるばかりだったために、情緒 的、霊的に不自由になっています。たとえば、昨晩私を訪れた二人の訪問者は、全くそのよい例です。そうした人たちに、私はいつも愛を語り、励ましを与え、 彼らの心の底を表現しようと試みます。悔い改めと従順はオプションではなく、必須です。初めて神様を知った時には、まだ悔い改めについて良く分からないで しょうが、少しずつ、神様は示して下さいます。一人ひとりが、処理できる範囲の適正さで示されます。もし、悔い改めるべきことを、いっぺんに示されたな ら、人は崩れて粉々になってしまうでしょうから。私も日々、悔い改めていきたいと思います。困難な選択を強いられても、心に割礼を求められたかのように (パウロの表現です)、決してひるむことなくありたいものです。神に用いられるために、清くありたいからです。

P: 天のお父様。多くの分野で、力強く、いつも働いて下さり有り難うございます。感謝します。私が自分 の役目を十分、認識し、人、辛い仕事などを恐れ、ひるむことがありませんように。私の目の前にあることが、私のささやかな犠牲以上に価値を伴うことだとよ く分かっています。どうぞ、私が、完全な服従と献身で、あなたへの知識を持って歩めますように。御心が成就し、ご栄光が現わされますように。有り難うござ います。ハレルヤ!

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