2009年2月28日土曜日

2009/02/27

イザヤ6:1~8

S:イザヤ6:5 そこで、私は言った。「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間で住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目でみたから。」

O: 神の聖さをたたえたセラフィムに応答したイザヤの言葉です。イザヤ自身持っていないと思っていた神 聖さが啓示され、圧倒されて出た言葉です。ある意味で、十字架なくして、私たちが、いかに聖でないかに気づくまで、神様の聖さを受けることはできません。 私たちが話すという単純で基本的なことでさえ、神様の助けがないと、罪に汚れた言葉となる時もあります。イザヤは神のみ言葉を告げる者として用意されまし た。まだ、イザヤが働き始める前に、啓示を与えられたことは、とても重要です。私の知っている説教者の多くにも、このような啓示が与えられていたら、どん なに良いでしょう。イエスは、私たちの語る、ためにならないどんな言葉も差出すべきだと教えています。今日の御言葉で大切なのは、私たちの語る言葉は、神 様の聖さを正しく映し出すものでなくてはならないことにあります。

A: 私は言葉を語る者として働くように、語る賜物をいただいています。聖さと教えることの両方を守らな くてはなりません。冗談を言うべきではない、と言っているのではありません。イエスが冗談を言ったことをはじめ、冗談は聖書に多く記録されています。しか し、私はただ面白いだけの理由で冗談を言わないように注意すべきでしょう。汚いジョークが沢山あり、平気な顔で悪びれない人がいます。そうした冗談は、 ユーモアではありません。私は、いつも、神様がどなたであるか、恵みと全能の神様を心に意識しています。私の言葉は、神様にできないことはないという事実 を反映すべきです。とりわけ、私はクリスチャンの看板を負っているのですから、主の祈りの一行目を映し出すものでなくてはなりません。人は、私を見て、聞 いて、そしてそれらを基礎にしてキリストを判断するのですから、キリストを信仰を持って正しく映し出したいのです。

P: お父様。あなたの恵みを感謝します。私は、今日の御言葉が、いつも好きです。それは、多分、私があ なたのスポークスマンとして仕える決意をしているからでしょう。あなたの聖さにあずかって、歩き、語れますように。あなたのみ心が成就し、私があなたの御 言葉を混じりけなく、そのまま伝えられますように。感謝します。神様を賛美します!

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