2009年2月23日月曜日

2009/02/20

創世記46:1~7

S: 創世記46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

O: 創世記を読んでいて驚くのは、話に登場する主な人物が、殆ど神について知らなかったことです。この ことを念頭に見てみると、当時の社会では、一神教ではなかったのですが、他の選択をせずに、彼らは神を選んでいたのが分かります。ヤコブ/イスラエルは、 神と個人的な出会いをしました。にもかかわらず、彼にできたのは「アブラハムとイサクの神」と呼ぶことでした。大切なのは、神様はいつも私たちが今いる場 所で出会って下さるということです。そしてそこから引き上げて下さるのです。神様が私たちに関わって下さり、それから霊的により高く上げてくださいます。 もちろん、その究極の表れとなったのが、か弱い人間の赤子としてこの世に来られたイエス様です。人間の姿を取り、人間の限界を持ち、父の愛を人に教えるた めに、人間の罪のために罰を負って下さいました。これほど深く慈愛に満ちた神様の愛は、殆どの人の理解を超えています。私たちはその死に値いせず、神のみ そばに近づくこともできないほどです。それは、まるで放蕩息子が父に戻るのをためらったように、私たちを待っておられる父の元に自分は値しないと感じるの と似ているようです。

A: 神の愛を日本人に理解してもらうために、私がどう表現すべきか、もっと知りたいと思います。文化の 壁を乗り越えるのを求めるよりも、まず、彼らの今いる状態で会うべきでしょう。文化の違いから生じる罠と、福音の大切な中身を神に示してほしいと望みま す。これまで、文化の差異によって福音宣教が妨げられていたと思います。過去に来た宣教師にもその責任はあるでしょう。でも、私も彼らを責めることはでき ません。私は本当にこの教会を聖書的な文化を持った場所にしたいと望んでいます。文化のケアでMark・Estes氏が指摘しているように、日本人は文化 のケアをアメリカ人とは違った捉え方、表しかたをします。そして、日本人の教会はこうあるべきだと言った狭いに方には、私は賛成しません。それは、もう私 をはるかに超えたものです。聖書が、知恵が欠けていると教えている通りです。きっと、神様が惜しみなく、このことを教え示して下さるでしょう。この時期、 私は学校の仕事がなく、時間が沢山ありますので、断食、祈り、そして神のみ前に静まっていましょう。神が私に語って下さるのを聞き逃さないためです。神の ご栄光のために、ご計画を知り、従いたいのです。

P: 天のお父様。私に語って下さるあなたの忍耐に感謝します。私があなたにもっと耳を傾けますように。 私の心を基礎から変えて下さるために、お話し下さっているのですから。キリストの思いを語ったパウロのように、私があなたの考えに従って考えていけますよ うに。敵が積み重ねて作った欺きを壊し、日本人の心を自由にできるように、私を用いてください。彼らの救いとあなたのご栄光のために。有り難うございま す。ハレルヤ!

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